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 私はその時、14歳だった。詰襟を着て、ひょろりと背が高い以外は目立つところもない、成績も中の下の、ただの中学生だった。

 教室の前から2列目、ほとんど教壇の真正面に坐る私の後ろに、彼女は坐っていた。

 彼女は、授業の合間も昼休みも放課後も、暇さえあればいつも本を読んでいて、特定の誰かと親しいと言うこともなく、だが私も含めて話し掛ける誰にもへだてなく答えを返し、やたらと男子に攻撃的な女子や、すでに大人びて、まだそこまでは心の伸び切っていない我々に、すでにどきりとする視線を投げ掛けて来る女子の、そのどちらにも属さず、私から見る彼女は、どこか我々とは違う世界にいるように、常に物静かでぴしりと伸びた背中が印象的な女子だった。

 私たち──僕たちのその頃の担任は30歳くらいの独身の国語教師で、女子にはそこそこ人気があったが、男子には割りと嫌われていて、無口と言うよりは陰気な雰囲気と物言いのせいで、僕らは担任にコウモリと言うあだ名をひそかに献上していた。

 そのコウモリが、なぜか彼女を、クラス全員にはっきりと分かるほど、そしてクラスのほとんどが眉をひそめるほど、理不尽にいじめていた。

 僕の班のある女子は、彼女と体育でグループを組んで課題を一緒にやった縁で彼女と比較的仲が良かったのだが、ある日コウモリに、

 「あいつと付き合ってるとロクなことにならんぞ。」

と言われたと、僕たちに向かってぷりぷり怒っていた。

 他の時には、彼女が掃除中にうっかり階段から数段落ち、利き腕の手首をひどくひねったためにがっちりテーピングされ、数週間、鉛筆すら持てなかったのに、彼女にだけ教科書を書き写す宿題を特別に出すと言うことをやった。

 利き腕が使えない間、彼女は何とかもう片方の手で鉛筆を持ってノートを取っていたのだが、もちろん追いつけず、他の女子たちが彼女にノートを回し、怪我が治る間彼女を助けていた。僕ももちろん、求められれば彼女を助けた。

 コウモリはそれをつぶさに見ていながら、せせら笑うような表情を浮かべて、

 「階段から落ちて怪我をするような人間はもっと気を引き締めるべきだ。」

とか何とか、よくわからない理屈を言ってその宿題を言い渡し、彼女の斜め後ろに坐っていた副学級委員の女子が、さすがに顔をしかめて、

 「でも先生、鉛筆も持てないケガなのに。もっと別のことをさせればいいじゃないですか。」

 精一杯嫌悪を示して抗議したが、コウモリは考えを変えず、この1件は僕らが思うよりも早く──女子の情報伝達力を舐めてはいけない──他のクラスにも伝わり、それなりにあった女子人気を、コウモリは僕らの担任だった1年の間にすっかり地に落としてしまった。

 彼女はコウモリにはひと言も言い返さず、1週間ほど遅れて──もちろんコウモリは、その遅れを毎日みんなの前で叱った──その宿題を提出したが、点数も何もなく返却された挙句に、ノートのページの最初に、"字が汚いヤツはロクな人間にならない"と赤字で書かれたあったのを、僕はちらりと盗み見た。

 僕はそれで、コウモリのことが大嫌いになった。

 ある日の授業で、僕らは教科書に載っていた詩の朗読をやらされた。

 漢字の苦手な僕は朗読と言うヤツが大嫌いで、読み違えに精一杯気をつけて、途中でつっかえないように心臓をドキドキさせながらただ祈って、30行ばかりのその詩を、30秒で読み終わった。

 コウモリは、僕の駆け足の朗読を笑ったが、少なくとも笑い方はそれなりに好意的だった。

 そして、僕の後ろに坐る彼女の番になった。彼女はそっと立ち上がり、両手に、習った通りに教科書を乗せ、そして、大きく息を吸い込んだ音が、僕の背中にはっきりと聞こえた。

 最初の一語を彼女が発した時、教室の音が失せた。色も失せた。

 授業の間に私語がないのは当然だが、その時は、単に誰もが無言だったと言うだけではなく、教室からまるごとすべて音が抜かれたように、僕らの周りには音がなかった。聞こえるのは、静かに詩を読む彼女の声だけだった。

 彼女の読むその詩は、今まで僕も含めて他の同級生たちが読んだそれと同じとはまるで思えず、彼女が言葉の間に置く間と、時々彼女が息継ぎでそっと空気を揺する気配と、何もかもを含めて、僕らのいる教室と言う空間そのものが、その詩そのものになった。

 僕らは息を詰めて彼女の声に聞き入り、彼女が発音する言葉が、耳を通り越して脳へ直に染み込んでゆく感覚にゆっくりと瞬きをし、そっと盗み見ると、コウモリすら、呆然と彼女を見ていた。

 教室は、真っ白だった。壁は古びて少し黄味がかり、詩の中に表わされている無個性な清潔さを表わして、彼女の声と言葉だけが、そこをゆっくりと満たしてゆく。

 30行ばかりの詩を、彼女は恐ろしいほどの臨場感を込めて読み上げる。僕らはみんな、その詩の世界の中に引きずり込まれていた。この世界を、不粋な音や呼吸や気配で壊すことを、死ぬほど恐れていた。

 14歳だった僕は、その時まで、こんなに心の中も頭の中も真空になるほど何かに引きつけられた経験がなく、突然別世界へ放り込まれたようなこの彼女の詩の朗読は、心臓が止まるほどショックだった。

 彼女が最後の行を読み終わり、そこでひとつ息を継いだ。それが終わりの合図だった。僕らは一斉に詰めていた息を吐き出し、そして一斉に彼女を見た。僕は思わず振り向いて、彼女を見た。

 彼女は、皆の視線には気づかない風に静かに椅子を引き、そっと腰を下ろす。彼女の頭の高さが皆と揃った途端、僕らは完全に現実に引き戻されていた。

 コウモリが言った。

 「読むのがゆっくり過ぎる。この詩はそんな風に読むもんじゃない。」

 今度は、教室中の視線が、黒板の前のコウモリへ集中する。コウモリは、僕らの視線の厳しさにたじろいだように、はっきりと後ろに肩を引いたが、ふんと肩をそびやかして、

 「次。」

と、彼女の後ろの女子を指差した。

 この子は、僕らと同じように、淡々とただ字を読んだ。平たい声は、僕の背中に届くのがやっとの音量だった。彼女の朗読の後では、どんな読み方をしても、僕らの脳までには届かなかったろう。この子には少し同情しながら、僕は教科書の字を、朗読と一緒に追っていた。

 終わった後で、コウモリが声を張り上げた。

 「わかったか、この詩はこういう風に読むもんだ。」

 僕は、コウモリはきっと気が狂っているのだと思った。僕でさえわかる彼女の朗読の凄さが、国語教師のコウモリにわからないはずがない。

 この教師は、自分の歳の半分の少女をここまで嫌って、この少女を貶めるためなら何でもする大人だと、その時僕は思った。

 実はひそかに、将来は教師になろうかと何となく考えていた僕は、この日その考えを頭からすっかり消してしまった。教師がこんな大人なら、僕は絶対こんな教師にも大人にもなりたくない。

 僕は彼女を振り返り、コウモリになんかちっとも賛同してないと知らせるために、肩をすくめて見せる。彼女はおどけたように鼻の頭にしわを寄せ、僕に向かって首を振った。

 気にしてなんかいないと言う意味だったのか、僕の伝えた意味がわからないと言うことだったのか、僕はよくわからなかったが、いつか今日の彼女みたいに、好きな詩を朗読できればいいと、そう思った。



 僕はよく、数学の時間には彼女の方へ振り返り、わからない問題を教えてもらった。英語もだ。僕が何を訊いても、彼女はいつも手を止めて、きちんと僕が分かるまで説明してくれた。

 3年になって、僕は彼女とクラスが分かれ、それきりになった。卒業後彼女がどうしたのか、僕は知らない。

 僕は今、娘と息子のいる父親になり、時々子どもたちに本を読んで聞かせる。

 幼い観客を目の前にして、僕はいつも彼女のあの朗読を思い出す。あんな風に読めるはずもないが、それでも、自分の子どもたちの、柔らかな脳に何か大事なことがきちんと刻み込まれるようにと、そこへ届くようにと、そう思いながら、僕は彼らに向かって本を読む。

 彼女のように朗読ができたらとずっと思って来た僕は、同時に、絶対にコウモリのような大人にはならないと決めて、それが叶ったかどうかは、子どもたちがもうちょっと育った時にわかるだろう。

 彼女も、自分の子どもたちに本を読んで聞かせているだろうか。あの時のように、世界の音と色を易々と入れ換えて、彼女の声と言葉だけがある世界に、自分の子どもたちを連れてゆくのだろうか。

 彼女があの日、教室で僕ら全員に与えた息苦しさを、僕は今も忘れていない。

 コウモリよりも年上になってしまった今も、僕はあの日の彼女を鮮やかに思い出して、あの声と間を精一杯真似ながら、我が子たちに向かって本を読む。

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