シャツ泥棒 |
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家に着いてまずするのは、外で着ていたものを脱いで、部屋着に着替えることだ。どこも締めつけることのない、普段着よりもサイズの少し大きい、だらしのない格好になって、私はまずひと息つく。
合うはずのない肩の線を、それでもとりあえず馴染ませようと両手の指先でつまみ上げてから、そのくたりとした感触に、そう言えばこのシャツは元々私自身のものではなかったと、不意に思い出す。
襟ぐりだけはしっかりとした、どこもかしこも私には大きなこの丸首のシャツは、以前一緒に住んでいた男のものだった。
外へ出る時はともかくも、家で中でだけ着るものなら、多少サイズが合わなくても構わないと考えている私は、洗濯の後で混ざり合ってしまった、私と男の衣類を取り分けながら、
「ねえ、このシャツ、ちょっと借りてもいい?」
と、洗い立てのきれいなシャツに着替える振りで、部屋の向こう側にいた男の背中に向かって訊いてみた。
男は私の方へは振り向きもせず、食事をするテーブルに俯き込んで、新聞を読んでいる顔を落としたまま、ああ、と生返事を投げて来る。
男が振り向かないのを確かめてから、私はその場で着ていた自分の、横じまのシャツを脱いで、男の、男が素肌に直接着けるそのシャツを、するすると着けてしまった。
男の体温にぬくめられ、散々水を通して洗われてしまっているシャツは、生地こそしっかりしてはいたけれどすでにくたりを柔らかく、驚くほど素早く私の肌にも馴染んで来る。
それは、とっくに触れ慣れている男の肌の感触とはまた違い、私の体を新たに覆う、もう1枚の皮膚のように、洗剤の匂いとまだ残る男の匂いと、洗濯槽で絡み合う間に移ってしまった私自身の匂いも一緒にごちゃごちゃと、軽く私の体にまとわりついた。
どれだけぞんざいに扱われても、そこだけは新品のようにしっかりとした丸い襟に、私は鼻先を埋めて、漂白剤の匂いもすべて一緒に、胸の奥に深く吸い込んだ。
ちょっと借りるだけのつもりが、男のそのシャツは、そのまま私の部屋着のコレクションの中にとどまり、男は自分のシャツが1枚足りないことになどまったく気づかないように、私がそのシャツを洗っては着続けているのを、面白そうに眺めはしても、咎めることは一度もしなかった。
男の体温になめされ、洗濯の水に叩かれて繊維はほぐされ、それでも陽射しに干されて乾けば真っ白に元通りになる、そのくたりとしたシャツの、体にまつわる具合を私はとても気に入り、なぜ自分の着るシャツは同じ具合にならないのかと洗濯の後で必ず訝しんだ。
シャツがそうなるためには、きっと男の体温が必要だったのだろう。
男の皮膚、男の体の熱さ、そこから流れ出て来る汗、そんなものがシャツの生地をゆっくりと変えてゆく。
男のための、新品のシャツではだめなのだ。男が着て、何度も洗われ、陽にさらされて、眩しいような白さを少しばかり失った頃合いでなければだめなのだ。
男の体に馴染んだそのシャツを、私が奪う。借りると言って、同じ部屋に住んでいるのだから、別に返さなくてもいい。返して欲しければ、男はただ私の部屋着の引き出しを開けて、そこから奪い返せばよかった。ただそれだけだった(もっとも、男は私の衣類がどんな風に分類されしまわれているか、知らなかったかもしれない)。
男はそうしなかった。私は、男にシャツを返さないでいた。
私は今ひとりきりで暮らしている。男はどこか別のところにいる。
思い出と思って、このシャツを引越しの荷造りの中に詰め込んでしまったわけではない。何も考えず、ただ他の、私の服たちと一緒に、まとめて箱の中に入れてしまっただけだ。何も考えず、私はただ作業の手を動かしていただけだった。
新しい部屋で、荷を解き箱を開けて中身を取り出して、以前と同じように分けてしまう時にも、私はそのシャツを手に取った記憶があるのに、
「返さずに持って来ちゃった・・・。」
と思った覚えがない。それほど男のシャツは、もう私のものになってしまっていた。
他人の服を借りること、借りたがること、それは確かに私にとって相手に対する親しみ表現であることは間違いない。
すでにその親しみの感情を失っているはずの男の、このシャツを、けれど私は手離すことができず、だからと言って、それが男へ対する未練かと考えれば、いやそれは違うと、私は即座に首を振るのだ。
私は単に、このシャツを気に入っているだけだ。
男が何度も着て、私が何度も洗って干し、その間にさり気なく私の所有物になってしまったこのシャツを、私はとても気に入っている、ただそれだけのことだった。
男が着てくれなければ、このシャツはこんな風に、私の気に入るように柔らかくはならなかったし、男に奪い返されれば、今私の手にあるはずもない。
買ったばかりの頃に比べれば、もちろん少しばかり柔らかくなっている襟口に鼻先を埋めて、私はもうそこに洗剤と自分の匂いだけを確かめる。男の匂いはない。
男のものだったシャツは、今は私のものになり、そして私は、このシャツがいずれ着古されて、もう捨てるしかなくなる時のことを考える。
男物の下着売り場で、私は自分のサイズを探すだろうか、それとも男のサイズを思い出しながら、それを手に取るのだろうか。
いや、と私はひとり首を振る。新品では意味がない。男が着て、あの皮膚と体温にぬくめられたシャツでなければ私の気に入るはずがない。
それなら、誰か他の、男でも女でもいい、誰かが着たシャツを貸してもらえるなら、譲ってもらえるなら、私は喜んで手を差し出すだろうか。
いや、と私はまた首を振る。
誰のシャツでもいいわけではないのだ。男のシャツだったから、私はあの時このシャツに腕を通し、そして男から奪ったまま、私は今もこのシャツを着ている。
それなら、と私はさらに考える。
次のシャツが必要な時には、男に頼もうか。すでに着てしまっているシャツを、1枚くれないかと、そう頼みに行こうか。
そうしてまた私は、ひとり首を振る。
違う、そうではない。男が着たシャツなら何でもいいわけではない。
あの時の、あの瞬間の男が着ていたシャツだったから、私はこのシャツを欲しいと思ったのだ。私が着たいと思ったシャツは、あの時の男が着ていたシャツだけだ。
あの時の、私が恋していた男が着ていたシャツ。今の男は、あの時の男ではない。だから、私が欲しいのは、今の男が着ているシャツではない。
私はまだ、あの時の男に恋をしている。その男は永遠に喪われ、もう私の恋は叶うことはないが、その形見のように私はこのシャツを大事に着続けるだろう。
あの男はもういない。あの私ももういない。このシャツだけが、あの時の私たちを記憶している。
男から盗んだままになったシャツにまた鼻先を埋め、そうして今度は、私はシャツの生地を噛んだ。傷めないように加減しながら、それでも力を込めて、まるで涙を耐えるために歯を食い縛るように、私は男のシャツに顔を半分埋めている。
私の体温にぬくまったシャツが、肌にぬるくまといつく。
混じる男の体温はなく、私のぬくもりは、今は私ひとりのものだった。
投稿者 43ntw2 | 返信 (0) | トラックバック (0)