http://43ntw2.sa.yona.la/1 |
返信 |
itext |
私と言う一人称を使った記憶がほとんどない。地元言葉では、いわゆる僕だの私だのと言う表現はなく、地元言葉での人称は、地元を離れた時に使わなくなった。地元へ戻ればその人称を使うが、それ以外の時は少々妙な人称を使う。
僕と言う人称を、十代の一時使った。これは母が非常に嫌がったのを覚えている。
私なのかわたしなのかワタシなのか、自分のことを考える時に、字面では恐らくわたしと言うひらがながいちばんしっくり来る気がするのだが、文体も語彙も誰に対しての文章なのかも、その辺りすべてを少しの間忘れて、ここでは私と自分のことを称してみたい。
長い間、私の普段の生活での人称は「I」である。これは、性別も年齢も社会的立場もまったく何も付加されない、非常に淡白な極めて記号的一人称であり、ごく普通の一人称を、自分の母語である日本語では使用しない私には、ある意味非常にありがたくもある。
日本語で使用している人称は、初めての人には少々説明が必要な場合があり、そして場合によっては失礼な物言いと取られかねない言葉であるので、なぜそんな面倒臭い人称を使い続けているのかと、自問もすべきかと思うが、普段肉声で使わない人称をわざわざ変更すると言うのも、必要に迫られなければ必要はないのである。
私は、自分を私と称したことがほとんどなく、現在の私はほとんど常に「I」であり、日本語の便利なところは、私と発言すべき場では「自分」と言う人称が使用可能な点である。
私が、私と言う人称を拒否し続けたことにそれほど深い意味があるとも思われないが、まったく自分ではない一人称や二人称や三人称を使った文章を書き続けて、今になって、では私を使って、私が私である文章を書くと言うのは一体どういうことになるのかと、ふと思ったのが今日のことだった。
私は長い間私ではなく、他の人称や人称ですらない呼び方で自分を表わして来た。それを少し変え、ついでに私になる私の、私でなくては出て来ない素のようなものを抜き出して、私らしく何か書いてみようと決めた。
これは私が私になり、私と言う私を理解するために、形になるように表現した上で眺めて理解したいと言う欲求と衝動を現す場である。
こうやって書き出すことが、私の本音であるのか、相変わらずの小説のようなものの体を取った、何か自己表現のようなものなのか、あるいはまったくの嘘八百なのか、何が出て来るのかは私にもわからない。
私は、私を私と呼ぶ私をよくは知らない。私を私と呼んでいた私は、私を私と呼びながら、実際はどちらかと言えばわたしであり、しかもそれは、文章を書く時と礼儀を持って大人たちと接する時にだけ使われる、ある意味特別の人称であったので、その頃私と私を呼んでいた私は、あまりに私の実情とは掛け離れた、よそゆきの私であった。
わたしとひらがなで言うなら、若干は素へ近づけるような気もするが、この場ではあえて私と漢字を使って、私すらよくわからない私と言う私を、ここへ引き出せたらと思う。
小説かも知れず、散文かも知れず、あるいはただの出来の悪い雑文になるかもしれない。私はただ、書きたいと言う衝動に従って、私と言う私を表わしてみようと試みるだけである。
投稿者 43ntw2 | 返信 (0) | トラックバック (0)