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言葉は脳の中の膿

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 文章を書くと言うことは、呼吸をすることと同じだ。考える必要はなく、気がつけば頭の中に言葉を連ねていると言う有様だ。呼吸ができなければ苦しいのと同様、書けなければ苦しい。頭の中に続々と現れる文章を吐き出す術がないのは、時に七転八倒の苦しみになる。

 何かを生み出すために書くわけではなく、何か善行でも施すために書くわけでもなく、それは単に書くためだけと言う行為で、そこには何の意味も重さもない。呼吸や排泄と同じだ。しなければ死ぬ目に遭う。


 売文と言うような目的もなく、またその技術も知性も気概もなく、ただ呼吸と同じに文章を連ねて、趣味と言うには漠然とし過ぎていて、職業にするにはあまりに浮わついたイメージが強く、そしてこれで身を立てるには、想像を絶する努力と運が必要になる。と言う程度の想像力があるのが、凡愚の何よりの悲しみだ。


 プロの野球選手が、夜中に起き出してバットを振る練習をするとか、どこかの職業作家が月産六百枚(原稿用紙)とか、子どもの頃はそんな話を聞いて、彼ら彼女らの努力と気力の度合いに感嘆したものだったが、今大人になって思えば、あれは努力でも何でもなく、彼ら彼女らは、ただそうしたい、そうしなければならないという衝動に身を任せただけだったのではないかと思われる。

 その衝動がなければ、そもそもプロの域には達せられない。

 好きも嫌いもなく、バットを振らなければ、書き続けなければと、常に背中を押される気持ちがなければ、人とは違う域へなどたどり着けるものではない。

 凡愚の苦しみは、同じ衝動があっても、吐き出すものと形がないことだ。書きたいが、書きたい衝動は背中を押して来るが、空の自分の中からは何も吐き出せない。吐き気があっても空の胃からは、嗚咽とせいぜいが胃液しか出ないのと同じだ。

 それを才能と言うべきかどうかは、あえて知らぬ振りを決め込んで、それでもその衝動を吐き出すために、あれこれの手段を意地汚く使っても来た。


 ある作家は、この衝動を鬼と呼び、背中に取り付いた餓鬼と同じだと表現した。

 私にとっても、この衝動はやはり鬼である。角があるかどうかも怪しい子鬼ではあるが、間違いなく肩の辺りに乗って、私の背を押し続け、耳元でなぜ書かない、早く書けと叫び続けている。

 書かずにはいられない。表現するものがあるなしに関わらず、頭の中に浮かぶ言葉を吐き出さずにはいられない。

 物語らしきものを綴って、あまりの愚鈍に完結さえさせられないとわかってはいても、書き出さずにはいられない。


 言葉は、膿のようだ。脳にできた、あるいは、生まれた時にはすでにあったのかもしれない、脳を損なう傷口から、熱を持って垂れ流れる膿だ。

 傷口は治る様子などなく、乾く暇もなく、膿を流し続けている。それを外に出さねば、ただでさえ嵩の少ない脳が頭蓋骨の中で圧迫されて、いっそう小さく縮こまる。

 私は、生きるために書き続けねばならないと、常に感じている。書けない自分が恐ろしく、書けない自分はゼロ以下になり、最早呼吸すら許されない存在になるのだと感じている。


 そうして一方で、その呼吸代わりに、では大層なものを書いているのかと自問もする。答えは当然否である。

 私が吐くのは、人の呼吸には使えない二酸化炭素であり、これは植物が吸収してくれるので、すべて害で無駄だとは言わないが、私に限って言えば、常にこの世の空気を汚しているような、そんな肩身の狭い思いもしている。

 それでも私は書かずにはいられない。私がこの世に垂れ流しているのが、二酸化炭素と意味も重さもない言葉の連なりなのだとしても、それをやめるわけには行かない。

 私は、そう言った意味で、世間にとっては毒にすらならない害毒であるが、害毒でなくなってしまえば、私は私でいられなくなるのである。

 私が私でいられなくなると言うことは、また世間には何の衝撃もないが、私の世界にとってはそれなりに大切なことなのである。

 私は私で在るために、呼吸のように文章を書き続けるのである。酸素未満の重さと価値の、私の脳の膿である言葉を、垂れ流さずには生きられないのである。

投稿者 43ntw2 | 返信 (0) | トラックバック (0)

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