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娼館の客 1

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 その客は、常連ではなかったが金払いの良い、女も丁寧に扱う、評判のいい男だった。

 軍帽も含めて、隙なく軍服を着、足を踏み入れてすぐ、迎えに出た女主人へ礼を尽くすようにその帽子を脱ぐ。やや丸みの強い頬の線に薄い唇、軍人特有の傲慢さがそこに見え隠れして、優しげに微笑みながらそれがなぜか蛇の類いの生き物を思わせるので、私はこの客があまり好きではない。

 客の方も、顔も体もせいぜい人並み程度の私になど、単なる礼儀で視線をくれるだけで、特に声など掛けられたこともなかった。

 私は、自分が場違いな女であることを自覚していた。相場よりもずっと高い金を払って女たちと寝るこの家で、私の顔も体もその金額に見合っているとはとても言えず、それでも女主人は、きれいな女に気後れする男たちもいるからと、私のような女もここへ置き、確かに女主人の言う通り、10人にひとりくらい、誰かに連れられて来てはおどおどと顔も上げられず、その誰かが選んでくれたとびきりの売れっ妓には恐ろしくて触れられないと言った風に、壁際で花ですらなく、空気のようにただ顔を並べている私を選ぶ男もいるにはいた。

 毎日ではなく、数人でもなく、女主人が慎重に選んでくれた男と寝ていれば金がきちんと貯まる、あるいは借金を返せる、ここはそんな家だった。

 客は今日、後ろにひとり、兵隊を従えていた。ふたり一緒か、あるいはこの兵隊に対する特別な褒賞か何かと思っていたら、客に言われて一歩前へ出たその兵隊は、まだ年若い娘だった。

 道理で背も高くないし、ずいぶん華奢だと思っていたが、まさか女とは思わず、それでも嵩張る迷彩服の埃くささを吹き飛ばすように、よく見ればとてもきれいな娘だった。

 ここで働く女たちと同じくらい華やかに着飾った女主人は、コケティッシュな仕草で娘に向かって目を細めて小首を傾げ、その視線は、明らかに売り物の女を品定めする時と同じ目だったが、客は女主人のそんな目の色をむしろ気に入ったように、これも唇の端を上げて満足そうに微笑む。

 娼館に若い女など連れて来て、まさかこの娘はここに売られるわけではあるまいにと、私は他人事(ひとごと)ながら、娘の先行きをひとり勝手に心配する。もっとも、売られるならここは確かに悪い場所ではない。売られる先によっては、地獄のような思いをする羽目になる。

 兵隊のこの娘は、文字通りの地獄を何度も見ているのだろうが、日に何十人もの男と寝なければならない売春婦の地獄と、この子ならどちらを選ぶだろうかと、私は考えていた。

 この客には馴染みの妓と言うのは特にいなかったし、やっと夕方になったばかりのこの時間、客たちが顔を見せるにはまだ早い時間だったから、家の妓たちのほとんどがここに集まって、退屈そうに娘を眺めている。

 「それでは後を頼む。終わる頃に迎えを寄越そう。」

 客はそれだけ言って、女主人とそこへ並んでいた私たちへ軽く会釈をし──何とお優しく礼儀正しいこと──、軍帽をかぶり直してひとり家を出て行った。

 残された娘は、居心地悪そうに表情をいっそう固くし、私たちをじろじろ見るのが失礼と思うのか、あるいは私たちを汚らわしいと思うのか、床のどこかへ視線をさまよわせてまだひと言も発しない。

 女主人は、その娘の頬へ向かって、優雅に、赤く塗った指先を伸ばした。

 「おきれいなこと。兵隊なんてもったいない。ここに来れば、美味しいものを食べて、好きな音楽でも聞いて1日中過ごせるのに。沼の中を這い回って蛭に血を吸われる心配なんて、二度とせずにすむの。」

 どこもかしこも線の円い女主人の声は、見掛け通りに円くて甘い。この声で、何人の女を口説いてここへ連れて来たのだろう。私もそのひとりだ。後悔はあまりしていないが、騙されたと、思っているのも事実だった。

 娘は、女主人の指先を避(よ)けたりはせずに、

 「私は戦車乗りだ。沼の中に入ったりはしない。」

と、頓珍漢に答えた。その言い方に、女主人は思わずと言う風に軽く吹き出して、この見た目通りに生真面目そうな兵隊の娘の、男のような物の言い方を、奇妙よりは新鮮と取ったらしい女主人の頭の中の動きが、私には手に取るように分かる。

 娘は確かにお世辞抜きに美しい顔立ちをしていたし、その声は思ったよりも低かったが、黙っていてもこの仕事はできる。私は、客と寝るよりは余興で歌を歌うことの方が多く(目当ての妓を待つ間に、私に歌わせるのだ)、声だけは褒められることがよくあるが、この娘くらいきれいなら、少々無愛想だろうが言葉遣いで興醒めしようが、金を積んで寝たがる客はいくらでもいるだろう。

 さて、この子はいつから私たちの朋友になるのか。後で迎えに来るとあの客が言ったのだから、今夜今すぐと言うわけではあるまい。

 「とにかく、まずはお風呂に入りましょう。どうせお湯をためられる浴槽なんてものはないんでしょう?」

 からかうように決めつけるように女主人が言うと、娘はちょっとだけ鼻白んだような表情を浮かべたが、どうやらそれは図星だったのか、言い返すことはせずに、そのままおとなしく女主人に手を取られた。

 女主人は、私たちの間をすり抜け、ぎくしゃくと歩く娘を、この家のいちばん奥へある自分の私室へ誘(いざな)ってゆく。すれ違いざま、女主人に目配せされた私は、戸惑いながらふたりの後をすぐに追った。絹のスリッパや皮のサンダルを履いている私たちと違って、娘の足はいかにも重くて固そうな軍靴に包まれ、この家にやって来る客で、こんな風体の者など見たことはないと、私は半ば呆れてもいた。

 他の妓たちは、私たちが去ってゆくと同時に、自分の部屋に戻ったり居間へ行ったり、好き勝手に家の中へ散らばってゆく。女たちの足音も消え、気配だけが長い廊下を伝わって来るその最後の部屋へ、招き入れられた娘の後から私も入り、ドアをそっと閉める。

 女主人は、部屋の続きにある浴室のドアを、娘のために指し示しながら、同時に私に視線を投げ、

 「そこの箱を全部開けて、中身をきれいに並べておいて頂戴。」

 女主人の、大き過ぎる天蓋つきベッドの傍の床に、大小様々な箱が山ほど並んでいる。明らかに服や下着や靴の類いだ。私など、とても手の出せないような高級品ばかり扱う店の名前が、箱の上にちらりと見えた。

 「じゃあ、お風呂へ。」

 女主人はまるで娘を逃がすまいとするかのように、その手を取ったまま、浴室のドアを開けてふたり揃って姿を消した。すぐに水音が始まり、その間に、女主人が優しく娘に話し掛ける声が聞こえる。

 あら、髪は長いのね。よかったこと。いいからお湯の中によく浸かって頂戴。爪を柔らかくしないと。いいの、髪もちゃんと洗わないと。石鹸で洗ってその後は? 何もしないの? お化粧したことは? ああだめだめ、そっと撫でるの、こすっちゃ駄目。

 私はいつ女主人が、娘に男と寝た経験はあるかと訊くかと、耳をそばだてていた。若くてきれいな女の処女は高く売れる。私の処女は2割増し程度だったが。でもおかげで借金が返せた。借金がきれいに片付いた後も、結局ゆくところもなく、私はこの家で娼婦を続けている。

 私は、女主人に言われた通り、床に坐り込んで、そこにある箱をひとつびとつ開け始めた。箱から想像した通り、ドレスが何着かと、それに合わせたらしい新品の、幾種類もの揃いの下着、コルセット、サンダルやハイヒール、イヤリングがドレスの色に合わせて同じ数、どれもこれも、私には手の出ない、客から贈ってもらった憶えもないような品ばかりだった。

 あの娘のためだろうと思って、これを用意したのは一体誰かと、ひとつびとつ、余計なしわがついたりよれたりしないように、丁寧にベッドの上に広げて並べながら、私の胸は小さな嫉妬に疼いている。

 自分で買えないなら、客に甘えた声でねだればいい。精一杯の媚態を見せれば言うことを聞いてくれる客が、今までいないでもなかったろう。そうしないのは、私のひととしての矜持だとか、美しくもない自分の分をきちんと弁えているからだとか、きれいごとはいくらでも並べられるが、結局のところは私の不器用さ──そして不器量さも──が私を一人前の娼婦にすることを妨げ、娼婦になり切らない自分は、売れっ妓の誰それとは違う、まだ真っ当な人間なのだと必死で思い込んで、ここにいる他の妓たちを内心は見下していると言うわけだ。

 私は確かに娼婦だが、路上に布でも敷いて、どこかの暗がりで袖を引いた客と寝るような売春婦ではないし、日に何人もの客と寝た挙句に病気になったり何度も孕んだりして死ぬ羽目になる売春婦でもない。女主人たちは、私たちを高級な娼婦だと言って、安く体を売る女たちとは違うのだと言う。その中で私はそんな"高級な"娼婦になり切れずに、様々な事情で娼婦になり切っている女たちを、内心で実は蔑んでいる。

 外見も醜い私は、内面はもっと醜く、だから美しいものの前では圧倒されて、それを隠すために何も感じてなどいない振りをするのだ。客の男たちが、肌を合わせることで私の内面にちらりと触れ、私の醜悪さに当てられる。ここにいる妓たちは私のよそよそしさを、蔑みの別の形と気づいているのだろう。

 あの兵隊の娘に嫉妬して、娘がこれから身に着けるのだろう装身具の美しさに気圧されて、今私はひどく惨めだった。

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