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娼館の客 2

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 女主人は娘に話し掛け続けていて、体のどこのどの部分をどんな風に洗うのか、文字通り手を取り足を取り教えている風景が私の前の前に浮かぶ。私の時にはずいぶんぞんざいだったのだと、それを聞きながら、思い至っていた。

 うなじや首筋は丁寧に、こすらないように、石鹸をたっぷりと使って撫でるように。耳の後ろは、ひりひり痛くなるほど磨き上げる。肘と膝と手足の爪先と足裏とかかともそうだ。手の甲は、そこから手首と指の間も、ほとんど石鹸の香りを塗り込めるようにそっと洗う。

 ここへ来て以来、私たちは頻繁に手を洗うことさえ咎められ、水を使うなどもっての他だときつく言われている。交代で通って来る何人もの女たち──私たちの母親くらいの年齢──が家事の一切合財をし、客たちのために、私たちは生活の臭いなど一切させないように、女主人にそう厳しく躾けられていた。

 あの娘の手はどんな風だろう。戦車乗りだと言ったが、たまには戦車の手入れも自分でするのだろう。機械油にまみれ、ねじや歯車に直に触れ、指先を切ったり掌をすり切らせたり、あるいは痕の残るほどの火傷もありそうだと、私はわざと意地悪く、あの娘の手足や体を、あちこち傷だらけで日焼けだらけに違いないと想像した。

 私は、ふたりが浴室から出て来るのを待つ間、ひたすら大きくて柔らかいベッドの端へちょこんと腰を引っ掛け、そこに並べた装身具のひとつびとつに見入っていた。

 あの娘に合うようにと選ばれたに違いないものたちは、どれも色鮮やかで艶やかだ。あの兵隊の娘に一体着こなせるのかと、私は自分のことを棚上げして考え続ける。帽子をかぶっていたから分からないが、あの娘の髪はどんなものだろう。日焼けして、手触りの悪いちりちりとした髪しか思い浮かばない。けれどそれは私がとても意地が悪いせいだ。

 私の髪は、ぺたりと真っ直ぐで、そのくせあちこちにはねると一向に言うことを聞かない。後ろから、首の辺りへこの髪をまとめて握り、ほとんど手綱のように扱う客もいる。私はそうされるのが好きではなかったが、仕事の最中に客の興を殺ぎ、途中で他の妓のところへ行かれてはたまらないので、私はいつも黙ってそうされている。

 うなじから手を差し入れ、髪の中に指を突っ込み、私は自分の髪をそっと梳いた。手入れだけはきちんとしてある髪は、きしきしと硬い手応えのくせに、するりと指はきれいに通る。この髪を撫でながら、好きだと言ってくれたのはどの客だったか。あの好きは、この髪に向けてのものだったのか、それとも私自身へだったのか、結局訊けないままだった。客の戯れ言を、いちいちそんな風に憶えているほど、私は自分を褒めてくれる言葉に飢えている。

 特にこんなところにいて、四六時中他の妓たちと比べられれば、諦めはしても妬みは全部は消えはしない。分を弁えていると言うことが、すなわち私が自分の全てを受け入れて達観していると言うわけではないのだ。私を選んだ客が、次にも私を選ぶことが滅多とないのが、寒々しい現実を私に見せつける。心のどこかでこの仕事を憎み、私を買う客を憎み、一緒に働いている妓たちを憎んでいる私の、そんな憎悪が表情に出ないわけがなく、ただでさえ不器量の私をいっそう醜くしているのだ。私はそのことに、長い長い間知らん振りを決め込んでいる。何をどうしようと美しくはならない私が、今さら媚びた笑みを必死で浮かべても、それこそ醜いだけではないか。

 私はこんなに卑屈で嫌な女だったろうかと、あの娘に嫉妬していると自覚してからうっかり覗き込んでしまった自分の胸の内に、慌てて蓋をしようと自分の腕を抱いた時、やっと浴室のドアが開いた。

 私は慌ててベッドから立ち上がり、ふたりの方へ体をねじった。

 入った時と同じに、女主人に手を取られ、真っ白いバスローブに身を包んだ娘が、湯に当たって赤く上気した頬で、体があたたまったせいかどうか、どこかなごんだような様子でそこに立っていた。大きなタオルで頭を包み、タオルの先に首が不安定に揺れるのを気にしながら、女主人に導かれるまま、大きな三面鏡の前へ坐らせられる。バスローブとゆるく曲線を描く椅子の脚の間から見える娘の足首は、驚くほどほっそりとしていた。

 私はしばし椅子の背に隠れている娘の体の線に見惚れ、鏡の中に映る娘の剥き出しの素顔に見惚れ、女主人が私を手招いているのに、少しの間気づかなかった。

 「何をしてるの。早くここに来て、準備を手伝って。」

 円い声をやや高くして、女主人に呼ばれて私は我に帰り、慌てて娘の傍へ行った。

 なるほど、私がここへ呼ばれたのは、この娘の髪を整え化粧をするためだ。

 お茶を引くことの多い私は、暇つぶしによく他の妓たちの髪をいじり、爪をきれいにしてやる。利き手の爪をきれいに塗るのは難しいし、髪を後ろから見て映えるようにきちんと整えるのも、鏡があっても限界がある。他の忙しい妓に頼む気にはならず、同じくらいきれいな妓にはやっかみで何をされるかわからないとそんな風に思うのか、誰とも特に親しくはせず、ほんとうに空気のような私──大事な客を取られる心配もない──には、そんなことも気軽に頼めるらしい。ようするに格下と思われているのだと気づいても、私は単純に目の前の妓が、始める前よりも見映え良く立ち去ってゆくのが楽しく、化粧の手伝いをするのは決して嫌いではなかった。

 この程度でも、役に立っているのだと思うことができたし、何より、もし娼婦として働けなくなっても、このまま髪を結ったり爪を塗ったり、そのためにここへ置いてもらえるのではないかと、そんな腹づもりもあった。そういう意味で、この娘を美しく飾ってあの客の前へ再び連れてゆくのは、私には素晴らしい機会だと思えた。

 私は、鏡の前を塞ぐように娘の前へ立ち、娘の素顔を初めてまじまじと眺めた。

 むきたて卵のように、つるりとした頬。少し横に広いが、ふっくらと形のきれいな唇。思ったよりずっと輪郭がはっきりとして、先端がややとがり気味なのが、顔立ちからすればただ生意気そうに見えるはずなのに、この娘の顔の中に収まると、むしろそれは凛々しく清潔に見えて、どれほど派手で下品な化粧をしたところで、この娘の清らかさは隠せないような気がした。

 私は、娘の頭越しにベッドの上の装身具へ目をやり、どの色のドレスを着せるべきかと黙ったまま思案する。私の視線でそれに気づいたらしい女主人が、

 「あの赤かしらね、やっぱり。」

と、まるで私におもねるように言う。

 ドレスは3着、鮮やかだが派手過ぎはしない大輪の薔薇のような赤いドレスと、珊瑚色をふた色濃く深くしたような落ち着いたピンク色と、そして最後は、若葉の色を泥の中に沈めたような、美しいがこの娘には地味過ぎる緑色のドレスだ。そう言えば、この緑は迷彩服にも使われている色だと、眺めて私は気づいた。

 この娘の、ほとんど真珠のような肌の色には、あの赤がいちばん映えるに違いない。どれほど派手にしたところで、下品にはなりようがない、この娘の奇妙な気品だった。

 私は、そんな必要もないのに、指先で娘のあごを持ち上げた。品定めするように、娘の顔の向きを何度か変え、右と左と何かを見極めようとしているような振りで、私は娘の顔を自分の好きに動かし、好きなだけじっくりと眺めた。

 娘はもう、ひるんだような様子もなく、私にされるまま、見つめる私の視線を真っ直ぐに受け止めて、そうして私の心の内をきちんと見透かしているように、結局先に戸惑って、視線を外したのは私の方だった。

 「爪を見せて。」

 私は娘に言った。娘は律儀に両手をきちんと揃え、手の甲を上に向けて、ぴんと伸ばした指先を私の方へ差し出して来る。女主人に言われて、恐らくしつこく湯の中であたため柔らかくし、爪の先はブラシで丹念にこすって来たに違いない。まだ赤みが差して、いかにも洗い立てに清潔に輝いている。けれど残念ながら──当然ながら──、爪は短く丸く刈り込まれ、色を乗せるには少々難がある。

 私は娘の指先をつまみ、そうして何かを確かめている振りをして、さりげなく娘の手にも触れた。

 「ふうん。」

 見定めたが感想は口にしない、そんな風を見せつけて、私は娘の手を返し、体をねじって鏡台の上へ振り返る。そこへ乗った様々なマニキュアのビンを、選んでいる振りで何本か取り上げ、顔に近づけてはちらりと娘を見返す、と言うことを4、5回やってから、私はまた娘の方へ向き直った。

 「任せて大丈夫よね?」

 女主人が、娘の斜め後ろから、ほとんど揉み手をするように私に向かって話し掛ける。ここへ来てから、女主人にこんな風に話し掛けられたことがあったろうか。この娘は、あるいはあの客は、女主人にとってよほど重要らしい。

 「きれいにするの、好きだもの。」

 私は媚びたように首をすくめ、客にさえ滅多と聞かせることのない可愛らしい声で笑う。娘は、私たちのそんなやり取りを、ほとんど無表情で見ていた。

 この表情が驚きに変わり、そして思いがけずきれいになった自分に、最初は照れ、慣れるうちに自信に満ち始めて、立ち振る舞いも変わってゆく、私はこの娘の、その様変わりを見たいと思った。化粧が終わり、髪が整い、あのドレスを身に着けて立ち上がり、鏡の中に自分の姿を確かめた後、固い殻で鎧ったような娘の、まるで私たちとは違う世界にいるような、自分はこちら側とは関わりがないのだと言わんばかりのこの無表情が、艶と媚びを含んで微笑むのを、ぜひ見たいと私は思った。

 自分がどれほど美しいのかを目の当たりにして、これこそがほんとうの自分なのだと知って、これを利用せずにはいられない気分にしてやると、私は心の中で誓いながら、振り返って鏡の中の娘の瞳に、自分の視線をひたと当てた。

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