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 好きな人がいるの、と彼女が言う。おやおや、と私は思いながら、手元のコーヒーに視線を落として、スプーンでかき混ぜている振りをする。彼女はカプチーノの泡をスプーンの先でいじりながら、上に掛かったチョコレートの線を、軽くくずして遊んでいる。


 で、と私は先を促す。どんな人?

 うーん、と彼女は考え込むような表情を作る。考えているのは、どんな人かと言うことではなくて、どう言えば私に上手く伝わるのか、そっちの方だ。

 話してるととっても楽しい人で、気遣いがすごくできる人で、いろんなことに詳しくて、好きなことにはすごく夢中になるタイプ。

 言葉を連ねる彼女の顔がほころび、幸せそうに火照り、決して整っていると言うわけではない彼女の顔立ちが、こんな時には何倍も魅力的に見える。彼女の言うその人が、そのまま彼女にも当てはまるのだが、彼女自身には自覚もないらしい。


 私はやっとスプーンをコーヒー皿に戻した。

 脈はありそう? 意地悪のつもりでなく、私はただ訊いた。

 彼女の笑みがいっそう深くなり、それからぎゅっと強く瞬きをして、鼻先にしわを寄せる。飼い主相手に困った時の犬のような表情だ。それから、彼女は冗談めかした仕草で首を振った。

 友達もたくさんいる人だし、正直わたしのこと、ちゃんと見覚えてるかどうかも怪しい。その人のいるところにいると、壁紙みたいな気分になるの。

 そんなことはないよ、と私は言わなかった。多分彼女はそう言って欲しいだろうと思ったが、同時に、そんなおためごかしを、私の口から聞きたくはないのも知っているからだ。


 彼女は魅力的な人だが、恋人にしたいとか一緒に暮らしたいとか、そういうこととは少し別で、世界の大半は彼女が誰にも気を使わない、わがまま勝手に振る舞う自由気ままな人間だと思っていて、だから一緒に真剣に暮らす相手には向かないと思っているらしい。

 私自身、彼女と暮らせば、互いに気遣うのに疲れてしまうだろうと言う感想を抱いていて、親しくなれば見えて来る、彼女の意外な繊細さと、気ままに振る舞っているように見せながら、実のところこちらに気づかせずに気配りをするところと、ああこれは、たまにひどく疲れてしまうのだろうなと、私は彼女のことを考えている。

 実際に、周期的に彼女は人嫌いに陥って、人恋しさを全身に滲ませながら全身に針を立てる。それはまるで淋しがり屋のハリネズミのようで、そうなれば付き合いの長い私も、気をつけて距離を取らなければ針に刺されて傷つくことになる。私が傷つくと、彼女がまた傷つく。


 滅多と恋患いの話などしない彼女の今度の人は、ほんとうに優しくて気持ちの良い人なのだろう。けれど、恋が成就するかどうかはまた別の話だ。

 その人と、もっと一緒にいたいけど、みんな忙しいから。

 彼女が言わないその後は、忙しいから、私と新たに付き合うための時間を捻出させる価値なんて、私にはないもの、だ。


 難しい問題だ。私は彼女をとても好きだが、世界の他の人たちが、同じように彼女を好きかどうか知らない。私にとって、私以外の誰かが彼女をどう評価しようと、私の彼女への評価にはまったく影響はなく、もちろん、私の他に、私のように彼女を好きだと言う人がいるなら、それは単純に喜ばしいことではあるが、同時に、私は時々そんな人たちのことを想像して、その人たちに嫉妬するのだ。


 私は、彼女を他の誰かと分け合うことに慣れていない。私から見れば、充分に人好きのする彼女は、けれど恋の相手に選ばれることは滅多となく(私も、人のことはまったく言えた義理ではない)、だからいわゆる、恋人ができて友情を二の次にする云々と言う事態が、私たちの間に起こったことがなく、彼女は大抵の場合、常に私ひとりのものだった。


 私たちを親友と評する人たちも数多くいるが、私はその呼び方に慣れていず、彼女を親友と決めるのは私であって他の誰でもなく、私を親友と決めるのも、また彼女だけであって他の誰でもあるはずがない。

 私たちは、互いを親友と呼ぶことをせず、それを言葉にして確かめ合ったこともない。私たちは、非常に親しい間柄でいて、長い間この親(ちか)しさを続けていて、それを特に名づけたこともなければ、名づける必要があると感じたこともなかった。

 多分、だからこそ、私たちはこんなに長い間、互いの皮膚の融け合ってしまうような親しさを、抱き続けていられるのだろう。


 私はコーヒーを飲みながら、彼女が語る新しい恋の相手に、ひそかにやきもちを焼く。

 彼女の、弾むような声の恋の話を聞くのを楽しみながら、見たこともないその人の、慈母のような微笑を想像して、ひりつくような痛みを覚える。

 素敵な人に違いない。

 私とは違って。


 その人が、他の人たちと楽しそうにしてると、仲間に入りたいなあって思うの。この間必死に話し掛けたら、みんな黙っちゃった。

 彼女がさも可笑しそうに言う。

 泣きそうだったけど、我慢したのね、と私は思う。泣くのが許されるのは中学生までだ。残念ながら、私たちはそんな可愛らしい年頃では、もうない。

 すごくね、優しい人なの。せめて友達になれたらって、思うだけで楽しくなるけど、そこから先は辛いだけなんだよなあ。

 彼女はもう、目の前のカプチーノのことを忘れてしまったように、横を向いて、まるでひとり言のように言う。私はその彼女の横顔を見て、そうね、辛くなるよね、と応えた。


 恋をすることは歓びだが、ある時点から苦痛だけになる。片思いは、自分だけで終わらせるものだから、思い切るきっかけを逃して、わざわざ苦痛を長引かせることになる。

 馬鹿だと自分のことを思いながら、その時にはもう、こんなに自分を苦しめる相手のことを憎み始めていて、憎しみの深さが気持ちの深さだと知らん振りもできず、いっそう振り捨てることができなくなる。

 なぜ、こんなに好きになってしまったのだろう。出会わなければよかった。この世に存在すると、知りたくもなかった。世界が全部光り輝くような思いの後で、後はひとりきり、水も日陰もない砂漠を、目的地もなく延々と歩き続けるような、そんな思いをするとわかっているのに、なぜ恋をしてしまうのだろう。

 なぜ、あの笑顔を、美しいと思ってしまったのだろう。


 好きな人ができると、ほんとに自分の粗ばっかり目について、落ち込むんだよね。好きになってもらう価値なんてないのに、おこがましいって、そう思うんだけど、好きになるのを、それでやめられたらいいんだけど。

 彼女は、途切れもなく言葉を継ぎ続ける。私はコーヒーを飲む合間にその言葉をすべて拾い上げ、彼女の痛みを自分の身に引き受けようとする。

 できはしないとわかっていて、それでも、彼女の痛みを感じようとせずにはいられない。

 その人とね、1日ずっと過ごせたらって考えて、どこに行こうとか何をしようとか考えるの。ばかばかしいけど、楽しい。楽しくて、その人のこと、もっと好きになって、どうしようもなくなるの。

 うん、そうね。私は、自分の、ずいぶん前に終わってしまった片思いのことを思い出しながらうなずいていた。


 私のコーヒーはそろそろ空になり、彼女のカプチーノは、消え掛けた泡の端が、カップの縁に未練がましく生き残り、それはそのまま、私たちの、実らない片思いの残骸のように見えた。

 冷えたカプチーノには気づかないまま、彼女はまだ私に横顔を見せている。

 辛いなあ、と彼女がつぶやく。辛いね、と私がつぶやき返す。

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