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道の上 1

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 私たちは、葡萄畑の間を歩いていた。

 それ以外は青い空しかない真っ直ぐな、歩道などない道を、時々通る車を気にしながら、私は彼の背中を見つめ、彼は振り返って私がそこにいるか気にしながら、私たちは、夏の日、そうして一緒に歩いていた。



 私が初めてまともに彼を見たのは、大学のジムのプールでだった。

 学生証を見せてタオルを受け取る受付でたまたま一緒になり、彼は男子用更衣室へ、私は女子用更衣室へ、右と左に別れ、着替えは女性の方が時間が掛かるものだから、私がプールサイドへ出た時には彼はすでに一番右端のレーンで泳ぎ始めていて、私は一番左端のレーンへ静かに入り、他のことなど目も入れずにすぐに泳ぎ始めた。

 私たちはふたりとも眼鏡を掛けていて、だから私がひと息ついた時に、上から私に声を掛けて来たのが彼だとは、すぐには気づかなかった。

 私は彼の顔がよく見えず、おまけに眼鏡のない顔をそもそも想像したこともなく、

 「よく泳ぎに来るの?」

 彼が、私と同じ英語修得のコースにいる学生で、母国語がスペイン語で、次はもう大学へ入学の許可されるいちばん最後のレベルのクラスでも上の方らしいと、私の彼に対する知識はその程度だった。

 「毎日、2回。」

 彼に通じるかどうか心配しながら、いちばん下のクラスにいる私は、彼へ向かって声を軽く張り上げた。

 「ここでは初めて会うね。」

 彼が微笑む。眼鏡のない彼の表情は、眼鏡のない私の目にはぼんやりとしか見えず、それでも笑顔が案外可愛らしい人だと、その時私は思った。

 じゃあ、と彼が手を軽く上げて去ってゆく。儀礼的に私もそれに手を振り返し、私はまた水の中へ戻ってゆく。

 ただ、それだけのことだった。



 大学構内に入ると、図書館への入り口がある。一応の受付──人がいるのを見たことがない──が右の方にあり、その正面にはベンチやソファが並んで、学生たちはバスを待つ間、たいていそこへたむろっている。

 壁際の、構内への入り口へ背を向ける位置の真四角のベンチが、私のお気に入りだった。

 私は帰宅前のバス待ちの時間をよくここで過ごし、授業の合間に暇があれば、まず間違いなくここで本を読んでいる。読むのはもちろん私の母国語の本だ。あるいは、表紙を隠したこの国の子ども用の絵本だ。

 プールに行くのは昼休みと放課後。1日2回。突然変わった環境で体を壊すことを恐れて、体力作りのためと言うことがひとつ、もうひとつは、学生ならただで使えると言うジムの温水プールが案外と豪華で、中学以来水泳から遠ざかっていた海の傍育ちの私は、川すら見かけないこの街で、単純に水の眺めに飢えていたのだ。

 ろくにこの国の言葉も使えない私は、授業についてゆくのが精一杯で、言葉の違う友達を作ると言う余裕などなかったから、そうやってひとりの時間を過ごすことがほとんどだった。

 同国人の学生とは、

 「黒人の人って彼氏としてどう思う?」

だの、

 「本って、教科書しか読んだことないから。」

とか、

 「日本人がバナナってどういう意味?」

と台湾人の学生に真顔で訊いて絶句されると言う風に、一体何を話せばいいのか見当もつかないまま、こちらが戸惑う間に向こうから相手にされなくなると言う状態だった。

 私はひとりには慣れていたし、うまく人と付き合えないことにもさして危機感はなく、学生たちにロビーと呼ばれていたその構内の受付前の場所で、周囲の会話で耳が拾った単語を辞書で引く、と言うことを合間にやりながら、いつもひとりで本を読んでいる変わり者として通っていた。



 「これ、君が書いたんだよね。」

 プールで聞いた声が、また上から降って来る。広いベンチの上に、靴を脱いで素足であぐらをかいていた私は、眉を寄せて声のする方へ顔を上げ、読書の邪魔をされた不快感を隠しもしない。

 私たち英語修得コースの学生用の新聞が、彼の手にあった。

 月に1度出るそれを、記事を集めて編集しているのは彼ら上のコースの学生たちだ。私たち下のレベルの学生たちは、彼らがどうやってこんなものを作っているのかすら知らない。

 彼はその紙面をもう少し私に近づけ、長い指先を下の辺りに置いた。

 「これ、君だろう。」

 指し示されたそこには、10行ほどの文章が囲みの中にあり、それに目を凝らして最初の2行を読んでから、私は一瞬で顔を真っ赤にした。

 そうだとも違うとも言わず、しかし私の反応で答えは十分だったのか、彼はおかしそうに声を立てて笑い、

 「そうだと思ったんだ。君の書いたこれ、好きだよ。」

 同じクラスのスペイン語を話すクラスメートに比べると、訛りなどほとんど感じられない流暢さで、彼が軽く言う。

 私は、不意に裸の背中を見られたような恥ずかしさを感じて、それ以上は彼には何の反応も返さず、黙って読んでいた本へ顔をうつむける。

 私の態度をどう取ったのかわからないが、彼は微笑みは消さないまま、じゃあ、と私の傍から去って行った。

 彼が私に見せたのは、作文の時間に私が書いた課題からの抜粋の文章だった。お気に入りの場所があって、そこにいつもいる。そこにいればひとりでも大丈夫だし、そこで周りの人たちを見ているのも案外と楽しい。そこは私の大事な場所だ、と言うような、他愛もない幼稚な内容だ。

 それがなぜ、私たち用の新聞の記事として載っているのかはわからなかった──作文の先生が、多分紙面埋めに提供したのだろう──が、ただ先生に見せるためだけに書いた私の文章、しかも見るに耐えないだろうひどい文章が、あんな風に人目に触れているのが信じられず、明日は先生に話をしに行こうと私は心に決めた。そして決めた瞬間、実行しないことをまた決心する。

 だって、どうやって話すの? 挨拶もろくにできないくせに。

 彼くらい話せれば、先生たちとも気楽に会話ができるのだろう。私のできるせいぜいは、バスの乗り降りに、運転手に必ずありがとうと言うくらいだ。

 目は手元の本の字を追いながら、どうせ他の学生たちは、あんなものにわざわざ目を止めたりはしないと、私は自分に言い聞かせた。

 彼があれを見せに私のところへやって来たのは、きっと何かたまたま、彼がそうしたい気分だったからだろう。プールで会ったことを思い出したからかもしれないし、ひとりで可哀想だと、あれを読んで同情でも感じたのかもしれない。

 彼も含めて、あれが先生以外の他の人たちの目に触れていると言う事実は、私をひどく打ちのめした。

 さらりと無機質に書いたつもりで、けれどああやって活字にされて紙面で読めば、行間から自分自身のやるせなさのようなものが読み取れて、自分でも気づいていなかったひとりぼっちの淋しさを目の前に突きつけられて、私は実のところひどくうろたえていた。

 でもきっと、それを読み取るのは、あれを書いた私自身だけに違いない。他の人が読んだところで、私の、私自身ですら無自覚の真意に、他の誰かが気づくはずがない。

 ベンチの表面を掌で撫でながら、心の中で、私はベンチに向かってありがとうと言い続けていた。どんな時もじっとここにいて、私と一緒にいてくれるこのベンチに、私は礼を言い続けた。



 彼とまた、プールサイドで顔を合わせた。

 彼はにこやかに微笑んで、やあと手を上げて来る。水の方ばかり見ていた私は最初彼に気づかず、歩き続ける私を避(よ)けない大きな影が目の前に来てから、慌ててそれを見上げ、それが彼と気づいて、私はひどくうろたえた。

 「これから泳ぐの?」

 普段、人とは物理的にも距離を取っているのが普通の私は、こんなに近く誰かに傍に立たれることに慣れていず、おまけにここはプールサイドで、つまり私たちは水着姿だ。私は咄嗟に自分の体を彼の目の前から消し去りたくなり、そして同時に、狼狽しながら触れられそうな近くにある彼の裸の胸や腹から目をそらそうとした。

 こんな距離では、眼鏡なしの近視の視界も役立たずだ。遠視だったらよかったのにと、私は内心わけのわからない八つ当たりをしている。

 彼の目を見ずにうなずいて、彼がまだ何か言いたそうだったのを、私は知らん振りでそこに置き去りにした。

 彼はちょっと首をかしげて、そして何も言わずに立ち去り、私はほとんど逃げるように水の中へ入って、目の中から消えない彼の水着姿のイメージを振り払おうと、いつもよりもむきになって泳ぐ。

 50mを半分に区切った25mのプールを、3度も往復すれば頭の中が空になるのに、今日は雑念ばかりが渦巻き、泳ぐことにまるで集中できない。それでもとにかく、いつも通りに40分程で500mほど泳ぎ、私は水から上がった。

 更衣室から出て、受付の傍を通り、ジムの建物から外へ出るために階段へ向かったところで、その階段の下から5段目に腰掛けて、本を読んでいる彼に出くわした。私と違い、彼の読んでいる本はきちんと英語の本で、人の読んでいる本のタイトルをまず読み取るのは私の癖だ。

 私が日頃読んでいる本とはまるきり装丁が違い、開きも逆のその本を持つ彼の手が、しっくりと本そのものに馴染んでいて、首の傾け方や視線の動きで、私は一瞬で彼が相当の読書家だと見て取って、同じように本が好きな人を見つけた喜びよりも、クラスでも成績が良く、先生たちにも一目置かれていると言う噂が私の耳すら届く彼に、私はこの時、劣等感を死ぬほど突き刺されていた。

 この国の言葉は、挨拶すらろくにできない私と、こんな本をすらすらと読んでしまえる彼と、裸を見られても隠すことすら思い浮かばないらしい彼と、水着姿と同じくらい恥ずかしい幼稚な作文を読まれて、死にたい気分になっている私と、彼はなぜここにいるのだろうと、私はほとんど怒りを覚えながら考えていた。

 「帰るの?」

 読んでいた本を閉じて彼が訊く。

 私は表情も全身も硬張らせて、短くうなずいた。走るように階段へ足を掛け、彼の傍をすり抜ける。彼は素早く立ち上がり、カバンを取り上げて、私の傍へ、軽々と2段飛ばしに並んで来た。その長い脚をちらりと見て、ここから突き落としてやろうかと、物騒な考えが頭をよぎる。

 「バス、1本遅らせないか。」

 階段を上がり切ったところで、私と歩調を合わせて彼が言う。私は正面を向いたまま、首を振った。

 「用があるの?」

 食い下がって来る彼に、私はほとんど自分をいじめたい気分で、ほんとうのことを言った。

 「うん、帰ってセサミ・ストリート見るから。」

 「セサミ・ストリート?」

 「そう、セサミ・ストリート。アルファベットと数字。ニュースなんか見ても全然わからないから。」

 さあ呆れろ、と私は言いながら思った。大学へ行くために言葉を学んでいるはずなのに、私はどうせそんなレベルだ。数すらまともに数えられない。読めるのは幼児向けの絵本だ。夏にはここの大学へ入れる彼が、こんな私に一体何の用だ。

 「ここのセサミはフランス語なんだろう? 僕が見たのはスペイン語だった。」

 彼が、私の刺々しい言葉を引き取る。まさか彼が、セサミ・ストリートの話題を拾うとは思わず、私はうっかりその場で足を止めた。さすがに無視し続けるのは失礼過ぎると思い直して、足を止めたついでに、私はやっと彼へ体を振り向けた。

 「・・・スペイン語も、フランス語のもある。どっちも全然わからないけど。」

 「僕のクラスの子が、テレビをたくさん見て勉強しなきゃって、テレビをつけたらひと言もわからなくて、"ああオレって全然ダメだ"って思ってたら、ルームメイトが後ろから、"おいおまえ、それフランス語放送だぞ"って。」

 さすがに、英語でないくらいのことは、聞けば私でもわかる。

 「フランス語とスペイン語だってわかるなら充分だよ。」

 慰めるためか力づけるためかそれとも単なる冗談か、彼はそうやって最後を締めくくる。私はいつの間にか眉間に寄せていた皺を伸ばし、彼を正面から見上げていた。

 私が、やっとまともな対応をする気になったのを見て取ったのか、彼は少しの間呼吸を整えるような仕草をして、それから、カバンを肩に掛け直して、話す速度を少し落とした。

 「前から話したいと思ってたんだ。」

 「なぜ?」

 言われた瞬間、断ち切るように私は疑問を口にする。それも、もう少し柔らかな言い方があると私が学ぶのは、もう少し後のことだ。

 「君のクラスの×××、僕と同じ国から来てるんだけど──。」

 言われてすぐ、よく喋る、いつも明るいひげ面の、穏やかに笑うクラスメートの顔がひとつ浮かんだ。そう言えば彼とよく一緒にいる。スペイン語を話すと言うことは知っていたが、同国人とは知らなかった。それで、と私は身構えながら続きを待った。

 「君、ヤツに訊いたんだろう、僕らの国では、政府が浮浪児を組織的に殺してるってのは本当かって。」

 脳の隙間に、冷たい空気が入り込んで来るような感覚があった。私はぎくしゃくとうなずき、いっそう彼に向かって身構える。

 「観光客に見映えが悪いから浮浪児たちを殺してるって本当かって、ヤツに訊いたんだろう?」

 「うん、訊いた。」

 彼の声はあくまで穏やかだったが、今では明らかに怒りか憤りかそんなものが含まれて、これから何が起こるのか、私はほとんど怯えながら予想しようとするが、突然空白になった私の脳は機能せず、ただ彼の言葉を聞いていた。

 乗るつもりだったバスの時間が過ぎようとしていたが、私は彼と向き合ったまま、そこから動けずにいた。 

投稿者 43ntw2 | 返信 (0) | トラックバック (0)

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