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嘘つき

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 君とかあなたとか誰それでなく、私と言う一人称で文章を書くと言うことは、書いたことすべてを肩に背負うことなのだと、私と言う一人称で文章を書き始めてから初めて悟った。

 私は、と言う書き出しで書かれた文章は、読まれる時に、「これは"私"と言うこの実在する人物の考えること思うこと見ること経験したことすべてのはずだ」と前提されるのだと言うことに、私はこんな風に文章を書き始めるまで気づかなかった。


 少なくとも私は、自分自身は自分の書く文章とはかけ離れていて、真実などひとつもないと真顔で言うことができる。私は下手くそな嘘つきで、下手な嘘を並べ立てて、例えば自分のこととは真逆を描写して外の世界を煙に巻いていると思い込める程度には愚かで、思うままをここに綴りながら、文章の最後に一体何を言うつもりだったのか覚えてすらいないお粗末さなど日常茶飯事だ。


 私が例えば男女の恋を書いたからと言って、異性と恋愛中だとは限らないし、女性同士の片思いを書いたからと言って、私が同性愛者だとは限らない。私が死に掛けたことのある入院患者を描写したからと言って、私自身が事故にあった当人だとは限らない。もしかすると私が、その誰かを死に導きかけた加害者の方かもしれない。

 私が書くことは私自身ではなく、そもそも私は、いつもは「私」ですらない。「私」と名乗る私は、こんな風な文章を綴る時に私が使う人格で、普段の私とはまったく違う人物だ。

 「私」を自称する私は、実のところ、「私」とは名乗らない私自身を非常に混乱させる。普段の人称で世界を見ている私と、「私」と言う人称で世界を見ている私は、どこかでずれて存在している。「私」が見る世界と、「私」でない私が見る世界は、まったくの別物だ。


 こうやって「私」として文章を綴り始めて、少しずつ「私」と「私」ではない私の間の溝は狭まりつつある。深さは変わらないように思えるが、少なくとも今では、ひと飛びで飛び越えられる程度の幅になったような気がする。

 ごく自然に「私」と頭の中で自称する機会が増え、「私」として世界を見ている時間を自覚するようになり、「私」の見ている風景に、「私」ではない私ももはや慣れつつある。

 私は、この「私」の存在への戸惑いを減らして、互いに歩み寄ったのかどうか、ほとんど触れられるくらいの距離に近づいて、だが顔を見合わせることはしない。目を合わせることはしない。「私」は「私」の見たいものを見て、「私」ではない私は自分眺めたいものを眺めるだけだ。


 何の自覚もなく、ただそうしたい、そうしてみたいと言う欲求だけで私と言う一人称で文章を綴り始めた「私」は、それについては何の覚悟もなく、書き始めて初めて、「私」と言う一人称の意味深さに気づいた。

 私は、「私」と言う一人称で書かれた文章に責任を持たなければならない。「これは私と言う人間についてのほんとうのことが書かれているはずだ」と言う暗黙の了解を引き受けなければならない。

 それに対して私は、「自分は嘘つきだ」と言う返事を返すことにした。

 「私」と名乗る私は私ではない。だから、「私」と名乗って書く私の文章は、何もかも徹頭徹尾嘘ばかりだ。下手であろうとなかろうと、「私」は大嘘つきだ。


 こうして私は、「私」が書いたものに対する責任を放棄して、好き勝手な放言を続けることにする。私は、「私」が見たものや感じたことを、あるいはそうと思われることを、好き勝手に「私」として書き綴る。私は「私」ではないから、それがほんとうのことかどうかはわからない。

 「私」の言うことには、真実は何ひとつない。少なくとも私にとって、「私」の書き綴ることはすべて嘘だ。

 無責任で嘘つきで人でなしの「私」は、頭蓋骨の中や体の中にたまった膿を吐き出すために、嘘八百を並べ立てる。「私」にとっては書くことは呼吸と同様であり、書くことが嘘なら、「私」はつまり、「息をするように嘘をついている」ことになる。

 「私」とはそういう人物だ。「私」は無責任の被膜の陰から、あれこれのことを書き綴って、外の世界へ流し出す。「私」の手から離れてしまったそれらは、元は「私」の一部であったが、離れてしまった後はまったくの別物だ。それは、「元私だったもの」でしかない。

 「私」は嘘つきだ。「私」の言うことなど、何ひとつ信じられない。


 「私」は考える。人の笑顔など信じられない。世界は欺瞞に満ちていて、生きることに価などしない。誰も彼も醜悪で、その心のうちを思い遣る必要などこれっぽっちもない。世界は一瞬でも早く滅びるべきだ。そして月曜日は、誰にとっても素晴らしい日に違いない。

 あなたの月曜日はきっと、どうしようもなく気の滅入る、憂鬱なだけの日だろうが、そうに決まっているしそうであればいいと、「私」は考えている。


 そして私は、どうか良い1日を、と声に出して言った。

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