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ある女(ひと)

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 後2週間くらいですって。彼女が、微笑んでいるような悲しんでいるような淋しがっているような、そのすべてともどれかとも言える、複雑な表情で私に告げる。

 え、何? 何の話ですか? 半分くらいはうろたえて、私は聞き返す。

 お医者さまがね、後2週間くらいだろうって。私、死ぬのよ、後2週間くらいで。2週間と繰り返しながら、彼女は微笑んでいるように見えた。

 黄疸のひどい黄色い顔色で、90に手の届く彼女が言う。そろそろ死ぬのだと、私に告げる。88の誕生日をつい数ヶ月前に迎えた彼女が、ひ孫にすでに子どもがいて、彼女の娘がその子たちの子守をしている彼女が、私にそう言う。


 私は赤の他人だ。言葉も違う、生まれた国も違う、世代もまったく違う、偶然彼女に出会い、少しばかり彼女の世話をする(ただ彼女をひとりにしないように見守っているだけだ)ことになった、ただそれだけの私だった。

 彼女は、たまに私が作る食事にまったく文句ひとつ言わず、必ずありがとうと最初と最後に言い、私が淹れるコーヒーか紅茶を、これもありがとうと言って飲んでくれる。

 彼女の、くしゃくしゃに丸めてから広げた紙のようにしわばんだ手を、私は時々自分の手に取る。ひたすらに柔らかな彼女の手を握り、彼女の1/4程度しか生きていない、まだ幼い自分(失笑ものだが)の、いつでもあたたかい手の中に、彼女のいつも冷たい手を挟み込む。


 彼女は同性愛者が大嫌いだった。そのことを彼女が口にするたび、ひそかに同性愛者である私は、ただ微笑だけを返し、彼女の気持ちを変えようなどと大それたことは一度も考えたことがない。

 彼女の末の息子は、他の家族とそりが合わず、ある日突然姿を消した後で、はるか彼方のある都市で、死亡が大きく新聞の一面に載る程度には知名度を得て、エイズで亡くなった同性愛者として、遺影となって再び彼女の前へ姿を現した。

 彼女のいちばん上のひ孫の夫は、ふたりの子どもを得た後で、もう嘘はつけないと、ある日突然同性愛者であることを皆に告げて、ふたりは結局離婚することになった。元夫の彼は、今は恋人と一緒に暮らしている。

 彼女は、同性愛者が大嫌いだった。


 私は彼女がとても好きだった。物静かで、学校へは行ったことがないと言うのに、彼女の語彙の多さと読書量に私は舌を巻き、勤労を美徳とするのは私も同じだったから、私たちは違いを脇に置いて何となく気が合い、恐らく私が彼女を好きな分だけ、彼女も私を好きでいてくれたと思う。

 同性愛者の私は、同性愛者が大嫌いだった彼女を、とても好きだった。

 同性愛者が大嫌いだった彼女は、同性愛者ではあるがそれを隠していた私を、とても好いてくれていた。


 彼女を蝕んでいたのは、奥深い内臓の病気だった。

 私が知るところでは、医者は患者にほんとうのことは言わない。けれど彼女のいるところでは、医者は患者にほんとうのことをはっきりと言い、そしてこれから死ぬのだと告げられた彼女本人から、私たちはそれを告げられるのだ。

 私は彼女の手を取った。

 なぜ、あなたがそれを私に言うの? 死んで行くのだと言うことを、なぜ当人のあなたが、私に言うの?

 どんな表情をしていいのかわからず、私はすでに泣いていた。2週間、14日、その間に、彼女が死んでしまうのだと、そう告げられて、私は彼女の前で泣いていた。


 彼女は思いやりの深い、とても優しい人だった。自分には厳しく、他人にはあたたかく、聡明で生真面目で、けれどいつだってユーモアを忘れない、素敵な人だった。

 コーヒーの大好きな彼女は、私といる時は私に付き合って紅茶を飲み、私は時々彼女に合わせてコーヒーを飲んだ。

 病院の薄いコーヒーが彼女の口に合うわけもなく、私は彼女に会いに行くたび、コーヒーを買って彼女に届けた。

 こんなこと、してくれなくてもいいのに。

 言いながら、それでもあっと言う間にコーヒーを飲み干して、そして彼女が飲めるコーヒーの量が、少しずつ少しずつ減って行くのに、私は悲しみながら気づいていた。


 意識がほとんどなくなった頃、彼女は自宅へ戻り、家族に囲まれて最後の時を迎えようとしていた。

 私は彼女の傍にいることを許され、それができる時は必ず彼女の手を握り、彼女に話し掛け続けた。

 医者と看護婦が、日に1度か2度、様子を見にやって来る。彼女の体をきれいにし、薬を与え、こちらから様子を聞き、そして、淋しそうな微笑みを浮かべて、ではまた明日と帰ってゆく。

 ある日の早朝、その明日がやって来ないことを、私は突然悟った。

 人は、一瞬で逝ってしまうのではないのだ。彼女の、もう力のない手を握り、手首に指先を添え、脈が戻ったり止まったりするのを、泣きながら感じていた。

 さようならと、きちんと言う間はなかった。戻って来ると思った脈が、何度目かにそのまま絶え、絶えたことさえ、気づいたのは何十秒も経ってからだった。


 私は彼女が大好きだった。彼女は同性愛者が大嫌いだったが、最後まで私が同性愛者であることは知らないまま、私を好きなままでいてくれた。

 彼女の家の合鍵を、その後私は形見のように所持したままでいたが、最近、求められてそれをついに家族へ返した。

 私は、彼女が大好きだった。コーヒーが大好きで、同性愛者が大嫌いな彼女が、大好きだった。

 紅茶の方が好きで、同性愛者の私は、彼女が大好きだった。ほんとうに、彼女が大好きだった。


 彼女の棺に、小さなコーヒーのマグを入れてもらった。彼女が、これで好きな時にまたコーヒーが飲めるようにと、家族に頼んで入れてもらった。

 彼女は土の下へ埋められ、先に亡くなった娘婿と、孫娘と、それから私の入れたコーヒーのマグと一緒に、そこで安らかに眠っている。

 同じところへ埋められるはずもない私は、もうこれきり彼女に会うことはないが、生まれ変わって彼女に会うことはないだろうかと、時々考える。

 その時も私は同性愛者で、彼女は同性愛者が大嫌いだろうか。彼女はコーヒー党で、私は相変わらず紅茶党だろうか。


 私は、彼女が大好きだった。彼女のあの柔らかな手が、大好きだった。

 2週間、と私に告げた彼女の声を、私はずっと忘れないだろう。その後で見せたあの微笑みを、私は決して忘れないだろう。

 脈の失せてゆく、骨と皮膚だけの彼女の手首の、あの奇妙につるりとした感触を、私は一生忘れないだろう。

 私は彼女が、大好きだった。

投稿者 43ntw2 | 返信 (1) | トラックバック (0)

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死、周りにヒトがいて死に向かう気配を予告できて迎えられるのはいいこと。

投稿者 q7ny3v | 返信 (1)

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