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とりとめなく

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 ほとんど日記のように、あれこれ思うことを書き散らしながら、数日やる気が起こらずにエディタさえ立ち上げていない。

 こんな時もある。

 頭の中に常に言葉が渦巻いていて、外へ出せと言う声は聞こえるが、単純に外へ出す作業が億劫だとか、外へ出そうとすると理解できる文章の塊まりにならないとか、そんな時には人との会話すらうまくさばけない。

 書くも話すも単なる慣れだ。しない間に技量はどんどん落ちる。3日人と声に出して話さなければ、挨拶さえ反応が鈍る。


 書くと言うことが仕事のわけはなし、時には書こうとせずに、何もしていればいい。

 好きな音楽を、ただぼんやりと聞いて、音楽を流しながら非生産的なパズルゲームを延々とやって、あるいは特に見たいとも思っていなかった映画や過去のテレビ番組を、ただだらだらと見続ける。延々と、何もしないことをやり続ける。飽きるまで。


 実のところ、飽きるのはすぐだ。何もかも惰性で続けて、部屋が暗くなった頃に、1日を無駄にしたことに気づいて、軽く自己嫌悪に陥りもするが、まあこんな時間もたまには必要だと言い訳して、それでも何か得たものがあったろうかと自分の胸の内を覗き込む。

 あるようなないような、あったようななかったような、自分が無駄にしたこの1日は、誰かが精一杯生きたかった1日かもしれないが、何にせよ、私の時間を誰かに譲渡することは不可能だ。私が無駄にしたこの時間は、どこまでも私だけのものでしかない。


 時間と同じように、命も誰にも分け与えられない。

 必死で生きたい誰かに、死にたがりの私のこの命を差し出せたらどんなにいいかと、こう思うのは多分、それが無理だからだろう。

 命の分配が実際に可能になった時、私は今と同じような心持ちで、誰かに自分の命を差し出すだろうか。どうだろう。

 仮にこの世から1万人(数字は何でもいい)の命と引き換えに、すべての人間を含む生き物が幸せで平和で健やかな人生が歩めると保証されたら、私はその1万人に志願するだろうか。

 今、それが無理に決まっている現在、するだろうと私は思っている。だが、実際にそれが可能になって、政府なり国なり何かの組織なりが私たちに向かってそれを頼んだとして、私は手を上げて前へ進み出るだろうか。

 どうだろう。


 死ぬと言うのは案外と面倒だ。

 死ぬ時には、人は死ぬ。何をどうやっても、人は死ぬ。死なない時には、何をどうやっても死なない。

 死んでいないと言うことと生きていると言うことは、実は同義ではない。それは同質で等質のものではない。死んでないから生きているわけではない。生きてはいても、死んだも同然と言う状況は、あちこちに転がっているものだ。

 書けなくなった時、私は恐らく自分が死んだと感じるだろう。そしてその死を、もっと確実に確かなものにしたいと願うだろうが、実際に実行するかどうかは別の話だ。

 私はこんな考えを常に玩び、実際の、現実の死に直面した時の自分のみっともなさを、今から嘲笑っている。私は間違いなく、死を前にして生にしがみつくのだろうし、死にたくない生きたいと、掌を返したように喚くのだろう。


 ビルから飛び降りる度胸はない。首を掻き切る度胸もない。死体の始末が大変じゃないかと、もったいをつけて、実際にその通りだろうが、死んでしまえばそんなことは知ったことではない。

 死ぬ時には、身分証明書を身に着けておくべきだろうか。あるいは完全に身元不明の、名無しの死体で埋葬されることを願うべきだろうか。どちらがどれだけ手間が掛かるのだろう。

 死体の重さを支える場所を、天井近くに見つけなければならない。ロープの縛り方もだ。確実に死ぬのには、案外と準備と手間が掛かる。


 死に損なうと、苦しみは倍になる。現実的な苦痛に、恐ろしいほど長い間拘束されることになる。死ねれば良かったのに、死のうとしなければ良かったのに、死に損なうのは、信じ難いほどの苦痛だ。

 確実に死にたければ、色々と方法はある。本気で考えれば、果たせないことではない。

 長い間こうやって考えながら、私が一向に何も実行に移さないのは、結局のところ私の気持ちなどその程度と言う話で、とりとめなく書き出した後で、こんなところへ話が落ち着くのは、私の脳裏には常にこのことが貼りついている、と言うことでもある。

 私はどうしようもなく情けない死にたがり屋だ。死に損ないの苦痛を恐れて、死そのものではなく、生きているゆえの苦しみを死ぬほど恐れて、絶対に実行することのない死を、頭の中でだけ常に望んでいる。


 とても大切な誰かが、それができるとして、生きたいから命をくれと言ったら、私はどうするだろう。ああいいともと、すぐさまその手を取るだろうか。

 汚物を吐き出すだけの存在の私が役に立てるのならと、私は自分の命を差し出すだろうか。


 頭を銃で撃ち抜かれるイメージが常に脳裏から離れないが、それは恐らく、銃が手軽に手に入る環境に暮らしていないからなのだろう。

 想像の中ですら、私の臆病さと情けなさぶりは笑止千万だ。

 明るい日曜日だと言うのに、私の考えることと言えばこんなことだ。そして私は今、極めて平常な心持ちでいて(と、自分では感じている)、どこかおかしいという自覚はない。

 また来週も、私はきっと同じように、とりとめなくこんなことを考えているのだろう。

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