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お茶にしよう

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 知らない街へ行くと、必ず喫茶店を探した。

 紅茶が美味しくて、居心地の良さそうな、そこでしばらく本を読んだり書き物をしたりして過ごせる、そんな場所を見つけるのが好きだった。


 住んでいた場所からひと駅奥へ行った、それなりに大きな街の、駅から真っ直ぐ行った、最初の大きな曲がり角の左側にぽつんとあったあの喫茶店、愛想のない外見のまま、店主は強面で無愛想で、けれど見たことも聞いたこともないような紅茶をずらりと揃えて、手作りのケーキが美味しい店だった。

 私はそこへ6年ほど通い、遠方へ引っ越してからは行く機会がなく、随分前に店が失くなったことを知った。

 今でも、あの店で初めて知った紅茶の名前と味と香りと、そして薄く粉砂糖の掛かったケーキの、手作りの素朴な甘さを鮮やかに思い出す。


 喫茶店に気軽に通うことができなくなり(車がなかったり、喫茶店などない土地柄だったり、理由は様々だ)、それでも相変わらずお茶なしでは1日も過ごすことはできず、物を書く時には必ず手元に何かないと駄目だから、結局は自分で紅茶の葉を探し、あるいはスーパーマーケットで適当に箱入りのティーバッグをつかみ、飲めれば何でもいい。紅茶であれば何でもいい。私のお茶飲みなど、常にそんな程度だ。

 前にも言ったような気がするが、砂糖は入れない。牛乳だけだ。クリームで我慢した時もあったが、今はもう無理はしないことにしている。紅茶はブラックでは飲まない。牛乳がなければ飲まない。ハーブティーは好みではない。

 牛乳をたっぷり入れると、ぬるくなる頃に猫に飲まれてしまうので、マグにはシリコンの蓋をかぶせてある。カフェインと猫は決して混ぜてはいけない。


 家だけでお茶を飲むようになって、外出先でお茶を買うことがなくなった。そうなる前に、自宅からすでに淹れたお茶を持って出る。中身はもちろんミルクティーだ。

 ある時、コーヒーの類いは外で買うと言う人間と付き合いだしてから、私もそれに習うようになった。飲みたい時に、淹れ立ての熱いお茶が飲めるのは、確かに素敵なことだった。

 この人間と付き合い始めてから、ふたりで使う金銭部分は私の管理下にあったが、私は現金をあまり持ち歩かないため、いわゆるポケットに入れて持ち歩く現金は向こうの管理下になり、コーヒーを外で買うイニシアチブは常にあちらの手の中にあった。

 「紅茶いらない? コーヒー飲みたいな。」

 そう言われれば、そうだねと一緒に店へ行く。コーヒーが買える店は、ほとんどどの曲がり角にもあり(やたらと教会とコーヒーショップの多い街だった)、この街全体が私たちにとっては自宅のキッチンのようなものだった。そんな時に、どうして自分の家でお茶を淹れようなんて思うだろう。


 そうして私は、外で歩きながら熱い紅茶を飲むことに慣れ、ポケットから小銭を出して紅茶を買うことに慣れ、そして、自分が飲みたいと思う前に、誰かにそうやって問われることに慣れてしまった。

 そんな私の目の前に現れたのが、かのスターバックスだ。そして私は突然カプチーノと恋に落ち、紅茶党でありながら、エスプレッソ系へも心を売ってしまった。私は裏切り者になった。

 大抵のところでは、紅茶はティーバッグで出され、まれに葉で出す店もないでもないが、そんなところはごくごく稀だ。その点エスプレッソは、きちんと淹れない限り店ではメニューには載らない(もちろん例外はある)。

 私は少しずつ、紅茶ではなく、他の飲み物を外では飲むようになった。


 ある時、ある事情で、私はまったく外へ出なくなり、スターバックスへ行くのは、懐ろ具合だけではなく、精神的にひどく贅沢な行為になってしまい、台所で火を使うことさえできなくなってしまった一時期、私は誰かが外から持ち帰ってくれる紅茶やカプチーノで、お茶への飢えをしのいでいた。

 紅茶のティーバッグがなくなっても、紅茶を淹れるための牛乳がなくなっても、自分では買いに行けない。そもそも、お茶を淹れるための湯が沸かすために台所へ行くことができない。台所へ行くために、階下への階段を降りることができない。最後には、湯を沸かすということ自体が自分ではできなくなってしまった。

 自分の家にいて、私は自分で飲むお茶すら自分で用意できず、スターバックスの営業時間が拡張されたニュースに、私はひとり喜んだものだった。


 私は今ひとりになって、自分で飲むお茶は自分で淹れることができる。出掛ける時には大抵紅茶持参で、週末の1日には、よくカフェラテを自分で淹れる。

 私だけが思うことだろうが、実のところ味だけなら、恐らくスターバックスのそれよりも美味いと思う。時々改心の出来にひとりでにやにやして、次も同じように出来たらいいなと考える。

 自分で淹れたお茶を自分で飲めるのは、私にとっては大きな進歩だ。


 月に1度くらいはスターバックスへ行く。ひとりで、自分用のマグを持って、それから書き物のための道具を抱えて、音楽を聞くために携帯が充電されていることとイヤフォンの存在を忘れずに、バスに乗ってスターバックスへ行く。

 私は自分ひとりで予定を決め、ひとりで歩き、ひとりでバスの乗り降りをして、ひとりで店に入り、自分で何を飲むか決めて、決めたことをきちんと自分で伝えることができる。伝えた通りに欲しいものが目の前に差し出されれば、それを自分の手で受け取り、自分で決めた席に、自分ひとりで坐り、テーブルの上に道具を広げ、そして終われば自分で後片付けをして、自分ひとりで立ち上がる。また自分でバスに乗り、最寄りの停留所で降り、ひとりで自分の家へ帰る。どこが自分の家かきちんと道順も覚えている。階段を自力で上がり、ドアの開閉もひとりでできる。

 私の頭はきちんと動いている。手足もだ。私は今、そうしたければ、自分ひとりでスターバックスへ行って帰ることができる。そうでないなら家にいて、自分でカフェラテを淹れて、自分で楽しむこともできる。


 それだけのことだ。私はお茶を淹れて飲むのが好きだ。どこかに出掛けて飲んでもいい。外で買って、歩きながら飲んでもいい。家にいて、自堕落にソファに寝そべって、テーブルに置いたカップに手が届かないことに、ちょっと腹を立てたりもする。私はそうすることができる。自分で。ひとりで。

 私はお茶を飲むのがとても好きだ。それを自分でできることを、とてもありがたいと思っている。自分の淹れたお茶を自分で飲めるのは、とても素敵なことだ。

投稿者 43ntw2 | 返信 (0) | トラックバック (0)

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