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9月

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 9月はあまりいい時期ではないらしい。

 ぱたりとやる気が失せ、すべきことにすら手を着けず、ただ無為に日々を過ごす。その無為に焦りを感じながら、それでも手も足も動かず、心は灰色に鈍麻したまま、美しいものよりも醜いと感じるものばかりが目に入り、ただただうんざりするばかりだ。

 そのくせ、もう何度読んだかわからない文章にひどく心を揺さぶられて、ページを繰りながら泣いていたりする。

 仕方がない。こんな時もある。


 好きな音楽も聞かず、本だけは読みながら、けれど自分で指先を動かすことはろくにせずに、1日の終わりに、ああ今日もまた何もしなかったと思う。そうして、頭の中は空白に満ちて、なかなか寝付けない夜を、これもまた空白に過ごす。何を考えても心が浮き立たない。何も私の頭をいっぱいに満たしてはくれない。ひもじい感覚ばかりがつのるのに、そのひもじさを癒せる何かがわからず、私は夜通し寝返りを打って、夜が明けたら少しはましになるだろうかと、そればかり考えて、朝の間近にようやくうつらうつらする。

 そうしてまた、同じ無為な1日を過ごすことになる。


 カフェラテを淹れることが非日常になるほど、何もない私の時間は、24時間などあっと言う間に過ぎ去って、その間に何をしているのかと言えば、音楽を聴くでもなく映画を見るでもなく、ただ言葉の切れ端を追って、垂れ流して、それだけでささやかに満足を得て(募る不満の方が結局は大きくなるのに)、夜の終わりを区切りながら、また眠れないまま朝を迎える。

 心も脳も、何かに飢えている。何かが足りない。何かが欲しい。

 だが私には、それが何なのかわからない。


 少しの間我慢していれば、事態はそのうち好転する。

 なぜあんなにも、醜いと思うものばかりに目を突き刺されていたのかわからないほど、美しいものが目の前に甦って来るし、世界は音楽に溢れて、素晴らしい言葉に満ちているとまた思えるようになる。

 私は笑顔を取り戻し、弾むように道を歩き、挨拶をする相手が自分に微笑み返してくれるのに、心の底からまた感謝できるようになる。

 私に向けられる笑顔は決して無駄や社交辞令ではなく(もちろん私の誤解の場合もあるが)、たまには誰かが自分を好いていてくれるのだと、私は素直に信じられるようになる。


 紅茶やカプチーノを淹れるのを、思いついた瞬間から飲み終わってカップを洗い終わるまで事細かに実況して、ネットのどこかへ垂れ流すような日々はひとまず終わり、私はようやく、何かそれなりにまとまったものを書きたいと思い始める。

 何でもいい。それこそ、カプチーノの自己流の淹れ方だっていい。ある日のカフェラテの会心の出来を、事細かに描写するのだって構わない。私がそれを楽しめるなら、心底楽しんできちんと書くなら、何だっていい。

 カプチーノを淹れるのが非日常の私の日々にとって、思わず出来た最高の味は、微細に描写するに値する。


 私は恐ろしく退屈な人間で、それに劣らず退屈な日々を送っている。私はそれを、それなりに楽しんでいる。楽しい限りはこれでいいじゃないかと、美しいものが美しく見える限りは思い続けるだろう。

 書き続ける限り、私は呼吸しているのだし、私は自分の脳を使って考えているのだし、私は間違いなく生きている。生きているなら、今はそれでいいじゃないかと、こんな時にはすらりと考える。

 退屈な人生、先行きなど何も見えない人生、非生産的で、非社会的で、外へ向かって胸を張れるものなど何もない人生、それでも私はひとまず、ここにいて息をしている。少なくとも今私は、消えてしまいたいとは感じてはいない。

 それで充分じゃないか。


 卑怯だと言われようと現実逃避だと言われようと、私は今、美しくて楽しいものだけを見ていたい。呪詛も毒も必要ない。私は自分の憂鬱を抱きかかえるのに必死で、他の誰かの怒りや嫉妬や不愉快を、目にして抱え込めるほど寛大でも寛容でもない。

 悲しみや淋しさの共有はやぶさかではないが、私と同じように努力を嫌う人間が、努力の果てに才能を花開かせた誰かに嫉妬する、その心に同意しろと強要されるのは、今はただの苦痛でしかない。

 妬み嫉みがないわけではないが、そんな愉しくもない気持ちに、今は囚われていたくはないのだ。

 美しいものを生み出せる人の存在を、有り難がりこそすれ、踏みつけにしようなとどは思わない。世界を明るくしてくれるその情熱を、愛することはできても否定も妬みもできない。

 私が持っていないものを持っているあの人を、愛することはそんなに難しいことだろうか。


 音楽は美しい。言葉は美しい。描(えが)かれた線と塗られた色は美しくて、私はそれを目にして耳にして幸せになる。

 ドーナッツの穴のように、空ろなのか哲学なのかわからない9月はそろそろ終わりだ。私は頭の中に美しい夢ばかりを詰め込んで、それと一緒に踊りながら、また言葉を紡ぐ日々に戻る。戻ろうとしている。

 週末にはカフェラテを淹れて、外出する必要のないことを喜び、美しいものを生み出す人たちのいるこの世界に感謝して、そして私は、もう少し生きてみようかと思うのだ。

 戦争は本とゲームの中だけのことになればいいと、半ば本気で思いながら、絵空事の中に埋没して、絵空事の欠片のようなものを指先から滴らせて、私は薄暗い9月をやり過ごそうとしている。

 愛するものと愛する人のことだけを考えながら、それを空っぽの頭に詰め込んで、もうすぐ寝る間すら惜しいようなそんな日々にまた戻れるように、私は生き続ける理由をそうやって目の前に並べて、憂鬱のトンネルを通り抜け掛けている。

 私はそんな風にしてここにいる。両手を上げて振って、誰かが自分を見てはくれないかと、私に気づいて笑い掛けてくれないかと、少しばかり必死に、薄暗い9月のトンネルの終わりで、私は明るい方へ向かって爪先を滑らせている。

 9月はもうすぐ終わりだ。

投稿者 43ntw2 | 返信 (0) | トラックバック (0)

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