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告白

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 私はどうも、少しばかり本気でカフェイン中毒を心配した方がいいらしい。それとも、他の依存症よりはましだろうか(と考える段階で、きっと私はもう危ない領域へ足を突っ込み掛けている)。

 日々のことをメモ代わりに書いてみたら、毎日コーヒーを飲むことばかり考えている。どこでどんな風に、どんなコーヒーを飲むか、私の1日にとって、それは大変重要なことのようだ。


 何かを書く時の連れに、必ず紅茶が必要だ。だから始終何か書くことばかり考えている私の手に、紅茶の入ったマグが常にあることは不思議でも何でもないが、実のところ、書くためにカフェインを飲むのではなく、カフェインを飲みたいために書きたいと思うのかもしれないと、ふと考え始めた。

 紅茶もコーヒーもなしに、私は書きたいと思うだろうか。書くと言う作業は、カフェイン抜きでもきちんと為せるのだろうか。

 紙やPCのモニタに向かっている私の傍らに、けれど湯気の立つ紅茶やコーヒーのマグが見当たらない。そんなことが有り得るだろうか。


 少なくとも高校の頃には、お茶を淹れて飲むと言う習慣はなかった。実家を離れ、同居人を見つけて、その何人目かの同居人が、何かあれば、

 「お茶飲む?」

と言う人だった。

 それまでの私にとって、お茶とは外へ出て飲むものであり、家にいて自分で淹れて飲むものではなかった。

 彼女と暮らした時間はとても楽しく、その楽しさとお茶が、私のどこかで深く結びついてしまっているのかもしれない。楽しいことをするとは、私にとってはお茶を飲みながらすると言うことになってしまっているのかもしれない。


 と言うことは、私がお茶を淹れて飲みたいと思うのは、楽しいと感じていると同義と言うことなのか? 楽しいことが起こるのだと期待して、そこへ結びつくお茶を、私は自分の傍らへ招き寄せようとしているのだろうか。お茶を淹れれば楽しいことが起こると、私の脳は思い込んでいるのだろうか。

 お茶とは、私にとっては楽しいことなのか。お茶それ自体と言うわけではなく、お茶が、楽しいことを常に連想させてくれるのか。

 お茶は美味しい。お茶は楽しい。私はお茶を淹れて飲むことが大好きだ。


 さて、お茶(紅茶かコーヒーだが)を飲めない時、私は不機嫌になるだろうか。

 残念がりはする。がっかりはするが、不機嫌になるほどではない。煙草や酒や音楽や書き物ほどは、切羽詰った気分にはならない。

 ちぇ、お茶(紅茶、コーヒー、カプチーノ、カフェラテ、カフェオレ、カフェモカ、パンプキンスパイシーラテ等々)が飲めないのか、とせいぜいポケットに両手を入れて肩を揺する程度だ。

 ああだが、街中をうろつき回って、コーヒーショップを探すくらいのことはする。どこかへ出掛ける時に、近くにスターバックスか何かがあるかどうか、今時なら事前に調べはする。

 大事な保険だ。不意に急にお茶を飲みたくなった時に、すぐそこへ行けるように。


 私はカフェイン中毒だろうか。

 煙草のみが、ライターを忘れると激怒するのを知っている。本気の地団太を踏んで悔しがるのを知っている。駐車場に車を停め、車外へ出て店の入り口へたどり着く5歩の間にも、煙草の先に火を点けずにはいられないのを知っている。

 酒飲みも同じだ。飲めないとなると、凄まじい暴れ方をする。

 音楽はどうだ? 落ち着かない気分になる。一刻も早く家に帰って、PCをつけて(私のCDコレクションは、ほぼ全部PCの中に入っている)メディアプレイヤーを起動させたくてたまらなくなる。聞いている最中には、眠る時間すら惜しい。夢の中でその曲をずっと聴いていられないものかと、真剣に考える。

 書くことも同じだ。書きたいのに書けないとなると、指先が気になってたまらなくなる。ペンと紙がありさえすればと、頭の中はそれでいっぱいになる。書けないことが理不尽に思えて、自分が世界一不幸な人間のように思えて来る。乗って来れば、睡眠など3の次だ。


 そう言えば、筆が乗っている時は、マグが空でも気にはならない。いや、書くこと以外のすべてが何もかもどうでも良くなる。

 それじゃお茶でもと思うのは、ひと区切りついて、筆(と言うのも、今時おかしな言い方だが)を置いた時だ。

 やはり私は、カフェインを飲みたくて書いているのではなく、書く時の最良の連れに、カフェインを選んでいるだけなのだ。


 私がカフェイン中毒気味であることは、残念ながら否定のしようもないだろう。

 そしてなぜか、どんな本が好きか、どんな映画が好きか、どんな音楽が好きか、と同じ程度に、どんな飲み物をどんな風にどこで飲むのが好きか、と言うことも、自己評価と他己評価のために重要と思っていると、最近気づいた。

 その人を知るために、飲み物の好みはとても大事だ。自分を知るためにも、そのことはとても肝心な点だ。

 こんな風に、繰り返し繰り返しお茶のことを話題にするほど、私にとってはお茶を淹れて飲むと言うことは、とても大事なことのようだ。


 さて、そろそろ新しい紅茶を淹れて来よう。

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