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本を読む人

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 彼は寝そべって本を読み、私は体育坐りの形で膝の上に本を乗せ、同じ部屋で一緒に読書の最中だ。

 私は、自分のことを読書家と思ったことはなかったが、冗談でもそんなことを自称しなくて良かったと、読書家と言うよりは活字中毒のような彼の、床に長く伸びて微動だにしない背中をちらりと見て思う。

 本の虫と言う、もう少し可愛げのある言い方もあるが、彼の、どこか人間離れした言動を考えると、それはあまり冗談にならないような気がして、私は彼を、対外的には本好きな人だとか読書家だとか、そんな言い方で表現している。


 彼は、暇さえあれば本を読んでいる。

 幸いに、トイレに持ち込んだり、食事の場で開いたり、そんな行儀の悪いことはしないから安心しているが、屋根と壁に囲われている場所では、ほとんど片時も本を手放さない。

 私も元々本を読むのは好きだったから、ふたり同じ部屋にいて一緒に、まったく別々の本を読んでいると言う状態は、最初の頃は気になったものの、そういうものだと慣れてしまえば、好きなように本の読める楽しみの方が勝って、同じ空間にいるのだからそれでいいじゃないかと、今は気にもせずに考えている。


 薄いナイロンのかばんを、くるくると小さくまとめてポケットに入れ、彼は時々ひとりで空手で出掛ける。行き先はふたつ先の町の本屋だ。何が特別なわけでもないその本屋へ、私と一緒にこの町に引っ越して来てからも忠犬のように通うのは、恐らく学生時代からの馴染みだからなのだろう。

 私にもそんな本屋はあるが、店主と親しげな口を利くような間柄にはなれずなる気もなく、せいぜいがこっそりと、顔なじみになった店員の女性のひとりに、注文を間違えた本を何とか買わずに済むように頭を下げ続ける程度だ。

 毎月買っている雑誌を、そろそろ定期購読を申し込もうかと、もう何度も考えた同じことを、ページをめくりながら私はまた考えていた。


 彼の背中は相変わらずぴくりとも動かない。

 私の方へは裸足の爪先を向けて、同じ部屋にいると言うのに、私のことなど忘れてしまったように、あるいは最初から存在しないのだとでも言うように、彼は読んでいる本の中へ入り込んで、もう呼吸で空気すら揺らさない。

 私の友人たちの輪の中へ彼が入って来た時に、最初に言われたことが、

 「あの人はすごく変わってるから。」

 滅多と口を開かず、積極的に誰かと関わることもせず、ひとりの時──大抵彼はひとりでいた──は目の前をどこともなく凝視しているか本を読んでいるかのどちらかで、拒否のオーラではなかったが、近寄りがたい空気をまとっていたのは事実だった。

 私は彼自身にはまったく興味は湧かず、ただどんな本を読んでいるのだろうとそれだけが気になって、後で聞いたところによると、彼の方も、見掛けると必ず本を携えていた私の、その本の中身のことが気になっていたそうだ。


 ふた昔前なら、文学青年と呼ばれてそれで終わったのだろう、身綺麗にはしているが飾ると言うことをしない外見と、本には金を惜しまないがそれ以外のことにはまったく興味を示さない態度が、私の友人たちの輪の中では明らかに異質だった。

 読書以外に取られるある種の時間を内心惜しみはしても、そのために友情を捨てられるほど高潔でもない私は、ごく一般的な本好きとして、適当に人付き合いを楽しみ、友人とのお茶の時間のために、読みたかった雑誌は今月はぱらりと立ち読みしてすませても平気な人間だった。

 幸いに、彼は自分の在り方を他人に押し付けるタイプではなく──単純に、そんな話し合いをする時間が惜しいだけのように思える──、私がごくごく狭く浅く本を読む人間だと知った後もそれに幻滅した様子もなく、せっせとひとり本を読み続けている。


 私は、元々の本好きの上に彼に感化され、以前よりも本を読む時間が増えていた。

 彼は、本を読む彼の傍で、私が音楽を聴こうとテレビを見ようと一向に邪魔にも思わないらしいが、一心不乱に本を読む彼の背中を眺めていると、何となくその世界の端っこにでもいたいような気分になって、私も結局本を手に取ってしまう。

 せめて同じことをしたい。彼はそれと特に求めてはいないが、私はこの不思議な人のいる世界へ少しでも関わっていたくて、夕べ寝る前に読んでいた本の続きのページを開くのだ。


 彼は、本をとても丁寧に扱う。読む時には必ずしおりかそれ用のものを手元に引きつけておくし、汚れたままの手で本に触ることなど絶対しない。読み終わればすぐに本棚に戻し、枕元へ積み上げておくのは手に入れた直後の数日だけだ。彼の本は古びたものもあるが、どれもきちんとカバーは掛かったままだし、帯も中の広告も、すべて手に入れた時のままだ。

 彼とこうして同じ空間を分け合うようになった最初の頃、今と同じように一緒に本を読んでいて、私は途中でひとり読書を中断したことがあった。

 鳴った電話を取るために、慌てて読んでいた本を開いたまま伏せて置き、数分後に電話を終えて自分の位置へ戻って来ると、伏せたはずの本は、読み掛けのページにメモ用紙が挟まれて置かれていた。

 私は思わず彼の背中を、半分くらいはにらみつけるように見やったが、彼はやはり今と同じように微動だにせず、自分の読書を続けていた。

 その時以来、私は彼に倣って、本を伏せて置くようなことをぴたりとやめた。


 私にとっては、それも彼の本の世界に少しでも関わっているためだったのだが、思いついてブックカバーを何枚か縫い、出来の少々怪しい分は自分用にして、残りを彼に渡した。

 手持ちの本のサイズをきちんと調べ、大抵のなら覆えるように大きさを変えて何種類か作り、しおり用の紐もつけた。

 無地の、地味な色合いの布で、とてもプレゼントと呼べるようなものではなかったが、一応は彼の好みを考えた私の思いやりに報いてくれたものか、彼は黙って微笑んでそれを受け取り、外に持ち出す本にはそのカバーを掛けて使うようになった。


 噂以上に偏屈で、時々人間であることが信じられなくなることもあるが、それでも私がこうして彼と同じ部屋で一緒に本を読み続けているのは、彼が私を、本を扱うと同じほど丁寧に扱うからだ。

 紙面に絶対折り目も傷もつけないやり方でそっとページをめくる彼の手指が、同じように私に触れる。

 頭の中に、一体どれほどの言葉を詰め込んでいるのか、私には想像すらつかない彼は、それを口に出して使うのは得意ではないようだが、耳で聞ける言葉ではなく彼の指先の動きが、何より雄弁に彼の気持ちを物語る。

 四隅のどこか折れたページなどひとつもない彼の本たちと同じように、私も彼に大事にされているのだ。


 彼の背中が動き、ぱたんと静かに本を閉じた音がして、彼が大きな動作で体を起こして立ち上がった。

 私の方を振り向きもせず、彼は黙ってそのまま部屋を出て台所の方へゆく。

 読んでいるページから目を離さないまま、私には彼が何をするつもりか分かっていた。思った通り、薬缶に水を汲んでいる音が聞こえて来る。食器の触れ合う音がする。コーヒーを淹れる準備だ。

 淹れ立てのコーヒーが私に差し出される時には、もうクリームも砂糖も、正しい量が入っている。彼は私の好みを正確に把握していて、彼のコーヒーを淹れる手つきもまた、本や私を扱うそれと同じに、ひたすらに物静かで丁寧で、そして優しい。


 今床に置かれている、彼がさっきまで読んでいた本には、私が作ったあのカバーが掛かっている。表紙がすっぽりと覆われ、何の本を読んでいるのかは分からないが、それは分からなくても良いことなのだと、私はふと思う。

 私たちはまだ互いのことを良く知らないし、知ろうと特に努力している気もしないのだが、彼の本棚に整然と並んだ本の、きちんと扱われている様を眺めて、これで充分ではないかと私は考えている。

 湯の湧く音を聞きながら、私も台所へ、彼とそこで腕でも組むために行こうかと思いついて、足元へ置いてあるしおりを手に取り、読んでいる途中のページへしっかりと挟み込む。

 本だけの置かれた部屋を一度振り返って、私は、本に触れていた手で彼に触れるために、台所へ向かって素足の爪先を滑らせた。

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