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ある朝のこと

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 珍しく混んではいない電車の中で、カバンを膝へ乗せながら椅子に腰を下ろし、そうだ今はまだ学生たちは冬休み中なのだと思い出す。

 それでも席は大体埋まる程度の車内をちょっと上目に見渡してから、私はカバンの中から本を取り出した。

 ちょっと慌てて出て来て、適当に本棚から取り出して来た本は、それでも充分興味をそそる──もう何度読み返したかは分からないのに──内容だったから、私はいつものようにわくわくと表紙を開き、目次を無視して早速中身へ読み進む。

 電車が止まり、人たちが立ち上がって降り、新しい人たちが乗り込んで来て、わずかずつ車内は混み始めていた。いつの間にか、隙間のあった私の隣りには誰かが坐っていて、本に夢中な私はそれが誰かを特に見ることもせず、胸元へしっかりとカバンを抱え込んで、目の前のページに熱中している。

 競馬好きの主人公が、怪しげな競馬予想紙の会社へ勤め、馬と馬主についての情報を集めているうちに八百長疑惑へ突き当たりどうのこうの、疑惑の面子の中には若い美しい女性がいて、当然ながら若い男である主人公はその女性とどうのこうの、結局八百長の仕掛け人である某馬主と彼女はどうのこうの、あらすじはすっかり覚えているのに、作家の、奇妙に情熱のこもった文章のせいかどうか、何度読んでも初めてのように面白くて仕方がない。

 私は馬にも競馬にも興味はなく、美しい男女の恋愛にも当然縁はない。読書は、非日常を覗けるから面白いのだ。自分とは無関係のフィクションの世界を覗き見しながら、今私は、ヒロインと肩を並べて馬主席にいる主人公と同じ目線で、レースの行方を追っている。

 このレースはどの馬が1位になるんだったかと、思いながら、アナウンサーがわけのわからないカタカナの名前を羅列して、馬がどんな順位でどんな風に走っているかと説明しているページを、ちょっと瞬きしながら読み進み、ページをめくったところで、何度読んでも決して馬の名前を、今回もやはり私は覚えてはいなかった。

 どの馬が1位になっても、話の筋にはあまり関係ない──大事なのは、馬の持ち主の方だから──ので、私は自分の記憶力にあまり落胆もせずに、さっさと話を読み進む。

 ヒロインが勝ち、彼女に便乗して馬券を買った主人公も勝ち、じゃあふたりで祝杯でもと彼が誘ったところで、彼女の愛人と目される某馬主が彼らに声を掛ける。

 ──これはこれはお珍しいところで。

 小説の中では、成り上がり後の投資先として馬を買ったにしては、見た目はそれなりに上品な中年男性だと描写されるこの馬主を、私は見知った俳優の誰かに当てはめて想像しながら、馬主と言うのは一体どんな人種なのだろうと読む間に考えている。

 主人公の方は、いつか大金を掴んでやると、やたらとぎらぎら野心に燃える青年として描かれているが、正直なところ、話の筋はともかく、この主人公は私の好みではない。競馬で大金を稼ぐと言うまったく持って非現実的な考えは、ネットで本を買う時にクレジットカードを使うのすら躊躇する小心な私にはまったく理解の埒外だ。

 勝った馬券でいくら懐ろに入る、と言う会話を3人がしている。私の何ヶ月か分の給料の話だ。現実の話ではないから、嫉妬もない。誰かが私の目の前で同じ話をしたら、私はきっと、その金額で何冊読みたい本が買えるかと換算するだろう。買うなら、この同じ作家の本を、本屋の棚の端から端まで一気に買ってみたいものだ。

 そんな大金が一度に手に入るなら──濡れ手に粟、と言うのはこういうことを言うのだろう──競馬もいいかもしれないと、勝った馬券を現金に変え、上着の胸ポケットに入れてしっかりとボタンを掛ける主人公が、家に帰るまでスリに気をつけなければと内心考えたところで、私は思わず平たい自分の胸へ掌を置いてしまった。

 馬主の男性が、何か意味ありげに青年を食事に誘う。もちろんヒロインの女性も一緒だ。彼女は3人をいやがって、その場から立ち去ろうとしている。

 そこで、車内アナウンスが、次の駅が私の降りる駅であることを告げた。

 私は続きを惜しみながら本を閉じようとして、しおりが見つからないことに気づいた。慌てて出て来たせいで、いつも読む本には必ず掛けるカバーを今日は忘れて来てしまっている。どうしようかと一瞬考えた後で、とにかく何か薄いもの、ティッシュか何かを挟んでおこうと、私はごそごそと上着のポケットを探るために腕を動かす。

 その拍子に、右隣りの男性の肘をつついてしまった。

 「あ、すいません。」

 私は彼に向かって軽く頭を下げ、右側にそれ以上近づかないように気をつけながら必死で右側のポケットへ手を差し入れようとする。電車はすでにスピードを落とし、停まる準備に掛かっていた。

 その時、その右隣りの男性──ごく普通のサラリーマンで、私の父よりはずっと若く見えた──が、

 「よかったら、どうぞ。」

と、いつの間にどこから取り出したのか、差し出されたのは買った本の間によく挟まれている薄いしおりだった。出版社の名前や、同じ会社から出ている本の宣伝などが印刷されたあれだ。

 え、と私の右手は宙に浮いて戸惑い、その私に向かって彼は邪気なく微笑み、

 「買った本に2枚入ってたんです。」

 ほんとうかどうか、そんな風に言う。もう電車は、降車駅のホームの端へ入っていた。

 「あ、すいません、ありがとうございます。」

 私はもう立ち上がらなくてはならず、断るのも何だか悪い気がして、彼の手からそれを受け取り、慌てて自分の本の間に挟んだ。本をカバンに入れる暇はなく、私はもう一度右隣りの彼に向かって軽く頭を下げ、停車直前の揺れに気をつけながら手にした本を落とさないように、するりと人たちの間を抜けて出口へ向かった。

 あまり乗る人のない駅で、ホームから電車の中へ振り返ると、人たちの間から右隣りの彼の顔がわずかに見える。向こうもこちらを見ていたのか、ひと呼吸の間目が合って、どちらからともなく浅く会釈をし合って、私は何となく去ってゆく電車をその場で見送っている。

 歩き出す前に、手にしていたままの本をカバンの中へ入れようとして、ふと思いついてもらったしおりを本の間に眺めてみた。しおりに印刷された出版社はこの本を出した会社で、それを確かめた私は、あの人ももしかするとこの作家のファンなのかもしれないと、少しの間、もう見えなくなった電車の去った先を視線でまた追って、ふと考える。

 カバーを掛けない本は表紙が剥き出しだ。もっと別の場所で、別の出会い方なら、この作家の話をできたかもしれないのにと、まだしおりを眺めながら私は考えていた。

 あの人も、競馬の馬たちの名前を覚えられない方だろうか。

 本の表紙を一度撫でて、私はやっとそれをカバンの中に戻し、いつものように歩き出す。

 余分のしおりを、カバンや机の中に常に入れておくのはいい考えだと、歩きながら思いついた。思いついて、本の入っているカバンを、私は何となく左手で撫でる。

 大金にふくらむようなポケットもない私の胸が、なぜかあたたかい気がした。

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