小さな楽しみ |
返信 |
itext |
私はほんとうに、始終飲むもののことばかり考えているようだ。
棚の中に紅茶がたくさんあると安心する。自分で買ったものも人から貰ったものも、どの順番で使うかと、考えている時の私の顔は、きっと見れたものではないだろう。
どこででも紅茶が葉で買えると言うわけではないので、すべて切れしまった時のために、ごく普通のティーバッグも箱で買って置いてあったのだが、それが近頃空になってしまった。次の箱を買って来るかどうか、まだ悩んでいる。
紅茶を葉で買える店は大体把握していて、街の中心地、地中海の食料を主に扱う店には、他では見たことがないニルギリやウバやダージリンやケニアの葉が置いてある。スコティッシュ・ブレックファストを、私はその店で初めて見掛けた。
気兼ねなく使う葉は、中近東系の食料品店で買うのだが、この手の店は入れ替わりが激しく、この間までそこにあった店がもうないと言うことも珍しくない。おかげでこの紅茶の葉を、私はアラビア語の使える友人知人たちに空箱を見せ、どこかの店で見掛けたことはないかとしつこく尋ね歩く羽目になったことも何度かあった。
そのために、この葉の空箱を、私はいつまでも捨てることができないのだ。
実家へ寄る機会がある時は、真っ先に紅茶を買い込む。
気に入った店があり、そこではコーヒーの方が主な売り物なのだが、紅茶もひっそりと扱っている。ティーバッグと葉の両方を、カバンの隙間を見繕いながら、できるだけ沢山買う。家族は呆れている。
不思議なことだが、この街で手に入れた紅茶は、実家に持ち帰ると水の質が違うせいかまったく違う味になる。実家付近で手に入れた紅茶は、どこでどんな風に淹れてもいつも変わらず美味しい。
実家ではコーヒーしか飲まないのだが、普段の私はほとんど紅茶しか飲まない。紅茶は、いくら飲んでも飽きない。
私にとっては、紅茶はいわば米の主食のようなもので、コーヒー(エスプレッソ系の)はちょっと特別なご馳走らしい。週に3度以上カフェラテを淹れると、途端に紅茶が恋しくなる。
ティーバッグは、淹れた後にそのまま捨てればいいが、葉を使う時は後始末が少々面倒だ。以前はティーポットを使っていたこともあったが、一度にひとり分しか淹れなくなってから、マグカップしか使わなくなった。
茶漉しに葉を入れて、そこに湯を注ぐと言うやり方は好きでなく、何かいい方法はないかと探して、Tea infuserと言う、湯の中に直接沈める茶漉しのことを知った。
簡単に言えば金属製のティーバッグのようなもので、よくある茶漉しの小さなサイズをふたつ合わせたような形をしていて、スプーンのように持ち手がついていたり、長い鎖がついていたりする。
使う葉の量によって大きさも選べるのだが、普通に店では見つからず、ネットで買おうとすると輸入する羽目になりかねず、ある時ふたつみっつ先の街で偶然見つけ、思わず複数買い込んでしまった。
その後しばらくはこの茶漉しを使っていたが、これが意外と消耗が激しく、年に数度新しくすることになり、金属製だから形はしっかりしているのに合わせ目がゆるんで来てそこから葉がこぼれるようになると、もうだめだと新しいのを下ろすのに、ひどく心が痛むようになった。
そうして結局、いわゆるお茶パックとやらを使い始めてしまった。
これを、私は堕落と感じたのだが、前述の茶漉しよりもずっと簡単に店で見つかると言うことは、紅茶を葉で飲むのに面倒はいやだとか、形のきちんとした道具をもう使えないと捨てるのは気が進まないとか、そう感じるのは私だけではないと言う証拠だと思って、以来ずっとお茶パックとやらを使い続けている。
葉を、スプーンですくって、開いた不織布の袋の中に入れる。包みの中の葉は、私がスプーンですくうたびに量が減り、保管用の缶の中には新しいティーバッグが増えてゆく。私はそのちまちまとした作業を、喜びとともにやる。
葉はすくうたびにいい香りを立てて、目の前で減って行く葉は、つまり次に新しい紅茶を買う時期が近くなると言うことを示している。
次はどんな葉を買うかと、考えながら私は、小さな袋に葉を詰めてゆく。私はこの作業が大好きだ。
紅茶を保管している棚がいっぱいだと、心底幸せになる。そしてそこから少しずつ箱や包みが減り隙間が多くなって来ると、不安になると同時に、また新しい葉やティーバッグを買って来れると、別に幸せの感覚が湧いて来る。
こんな風に書いていると、私はまるで、ちょっと危険な中毒患者のようだ。
飲み物を持たずに外出すると、必ず不安になる。喉が渇いたらどうしよう、紅茶を飲みたくなったらどうしよう。ドーナッツショップが、角ごとにあるこの街でそんな不安は滑稽なのだが、どの店で紅茶を買っても、自分で淹れた紅茶の方が絶対に美味しい──と感じる──に違いないと信じている私には、カバンの中に、自分で淹れた紅茶の入った水筒がない状態は、まるで上着も手袋もなく零下20度の外へ出て行くような、そんな愚かで不安な気分でしかない。
冬の間、バス停で寒さに足踏みしながら、カバンから取り出した水筒を開けて、そこからふわっと上がって来る湯気に目を細めて、淹れたばかりの熱い紅茶をそっとすすることは、私のささやかな幸せだった。それは、寒くて長い──今年は特に──冬に対する、私のささやかな抵抗でもあった。
牛乳をたっぷり入れた熱い紅茶が、冷たい空気を吸ってそこも凍えている口の中からゆっくりと喉を通り落ちて、胃の入り口から私の体全部を温めてくれる。
胃のぬくもりは裏側から背中へ伝わり、私はそうしてやっと寒さの中で背を伸ばし、まだやって来ないバスを、いらいらせずに待つ。
本を読むには手袋が邪魔で、バスを待つ時間を、私は水筒の飲み口から立つ湯気の勢いを眺めて過ごすのだ。
ウバもニルギリも使い切ってしまった。ダージリンの葉が残っている。ダージリンの香りが大好きな私は、まだもったいなくて封が開けられない。このまま使い始めるか、別の葉を買って来て後に回すか、楽しく苦しく悩んでいる最中だ。
お気に入りの店が、ディンブラを扱わなくなってしまった。どこか他で見つかるだろうか。
ほうじ茶ラテと言うものがあると聞いて、飲んでみたくて仕方がない。
チャイのために、しょうがを買って来なければならないから、週末の買い物リストに忘れずに入れておこう。
しばらくの間、日記のように毎日何か書いていたのだが、8割が何か飲み物の話だった。我ながら呆れて、それでも私は飽きもせず紅茶やコーヒーのことを考えている。書く時には、もちろん傍らに飲み物が必要だ。
明日の朝はチャイにしようか、それとも普通の紅茶にしようか、私はきっと夢の中でも何を飲むか悩むのだろう。
投稿者 43ntw2 | 返信 (1) | トラックバック (0)