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生きてゆく

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 朝、目覚ましの鳴る少し前に目を覚ます。目の前ににゅっと突き出された、猫の前足。白いその足の、人間で言えば足裏に当たるその部分は、黒くぽちりと盛り上がっている。

 まだはっきりとは目覚めないまま、今は一体何時かと思いながら、私はその猫の前足へ視線を据える。時々、傍若無人に人を踏みつけてゆく足だ。爪が伸びている。出掛ける前に切ってやらなければと思う。まだ夢うつつで、考えたところで覚えているかどうかは極めて怪しい。


 白と黒のその猫は、白っぽい桃色の鼻先の3分の1ほどが、墨でもなすったように黒い。その鼻が全部桃色なら、もうちょっと可愛げのある顔立ちだろうにと思う。そう思うのは人間である私の勝手だ。

 白と黒のその猫は、4つ足の裏すべてが黒いが、ひとつだけぽつんと、鼻先と同じ桃色の足裏をしていて、外で暮らしたことのないその白黒猫は、おかげでその桃色はほとんど子どもの時と変わらずふっくらつやつやとして、生まれたての赤ん坊の頬に似て、眺めているといつもつい触りたくなる。

 白黒猫のそのぽつんと桃色の足裏は、人間で言えば右手の人差し指に当たると言うところか、その桃色の足裏を見掛けるたび、私は何だか、その白黒猫に、人差し指を突きつけられているような気分になるのだ。


 生まれた直後から人間に世話され、常にたっぷりと愛情を受けていたこの白黒猫は、誰かにいじめられたこともなく、私が手を振り上げてもきょとんとこちらを見上げるばかりだ。

 抱かれるのも膝に上がるのも大好きで、爪を切らせてくれと爪先をつまんでもろくに抵抗もしない。

 与えられた食事をにぎやかに食べ、病気もせず、怪我もなく、引き取った瞬間からまるで生まれる前からの友人のように私のふところへ飛び込んで来て、白い腹を見せてごろごろと喉を鳴らす。


 深く考えもせず引き取ったこの白黒猫の、鼻が桃色だと言うことに、私はしばらくの間気づかなかった。

 毛色の濃い猫ばかりと一緒にいて、この白黒猫の可愛らしい、まさしく桃の花のような鼻先の色は私には初めてのことで、引っ繰り返した爪先の、ぽつりと鮮やかに桃色なのも、私には初めてのことだった。そう言えば黒でも濃い茶色でもないと気づいて、その愛くるしい桃色に、私は思わず微笑みかけたものだ。

 大人猫ばかりを引き取って来た私の元へ、子猫でやって来たのも初めてだったし、首や耳の柔らかい部分を、寝ている間に吸われるのも初めてのことだった。


 白黒猫の、桃色の足裏を見るたび、私は何だかとても得をしたような気分になるのだ。

 黒い部分よりも少し長い白い毛は、毎日風呂に入ってでもいるようにとことん白く、その柔らかさと来たら、獣医のところの看護士(と、動物相手でも言うのだろうか)に当たる女性たちが、診察後も白黒猫を抱えたまま、

 「やわらかーい。」

とその腹やら胸をずっと撫でていたくらいだ。


 母猫と兄弟姉妹猫たちと一緒に保護され、他の仔たちがもらわれて行った後に、1匹だけ残っていたのがその白黒猫だった。

 可哀想と思ったわけでも、それなら自分がと思ったわけでもない。何となく出会って、何となく引き取って、すでに何匹もの猫の世話をしていた私の家に、また1匹新しい猫がやって来たと言うだけのことで、何も特別の理由があったわけでもない。

 白黒猫が格別可愛らしかったわけでもなければ、格別可哀想な見掛けだったわけでもなく、1匹だけ売れ残っていた(ひどい言い方だが)と言うのも、引き取る手続きをしながら世間話の流れで聞いただけで、白黒猫の過去や私が引き取る前に身の上に起こったことなどに、私が格別興味があったわけではなかった。

 たまたま通り掛かった、昔別の獣医が同じ場所にいて、その獣医が私の最初の獣医だったと言う、ただそれだけで懐かしさに視線を送った先に里親募集中の貼り紙があって、その時たまたま時間があった私が、何も考えずにふらふらと中へ入り、入ったすぐそこへ置いてあった小さな檻の中で元気良く騒いでいたのが、この白黒猫だったと言うだけの話だ。

 目が合い、私はほとんど脳を動かしもせずに、この猫を引き取ろうと決めてしまっていた。

 私の中で何が起こったのかよくわからない。ほとんど即断で、この子猫は私と一緒に暮らすのだと決め、すでにマイクロチップも予防接種も去勢も済まされていたその白黒子猫は、その時もその後も、ほとんどまったく私の手を煩わせなかった。


 運命だとか何だとかそんなものではなく、鼻先と足裏ひとつだけ桃色のこの白黒猫の、この可憐な彩りが、私の人生に必要だったのだろう。たくさんの彩りではなく、ほんのわずか、指先でつついた程度の皮膚の上の赤みのような、この彩りが、私に必要だったのだろう。


 白黒猫は、毎晩私の傍へ来て眠る。子猫の頃は喉の上へ体を伸ばして寝ていたが、大きくなるにつれ、それは私の息の根を止めかねない重さになり、飼い猫の重みにより窒息死と言うのも悪い死に方ではなさそうだったが、幸い私が眠ったまま死ぬ羽目になる前に、猫の方が寝場所を変えてくれた。

 ベッドの半分を猫に取られ、もう何年も手足を伸ばして寝たことがないが、猫の感触がなければ、きっと私の眠りはとても淋しいものになるだろう。


 もうすぐ目覚ましが鳴る。今日は白黒猫を抱き上げて、あのぽつんとひとつだけ桃色の前足を確かめてから出掛けよう。何の変哲もない猫の前足の桃色の愛らしさを眺めて、冷たい桃色の鼻先に私の鼻先をくっつけて、服についた猫の毛はちゃんと払ってから、今日も私は、猫たちのために無事に帰宅すべく、途中の事故にも突然の病気にも気をつけて仕事へ出掛けてゆくのだ。

 私はもう、猫より先に死ぬことはできないのである。

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