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道具と私

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 他の用はあるのだが、何となく気が乗らずに後回しにして、こうやって意味もない何か文字の羅列を吐き出してしまうことがある。

 何が書きたいと言うわけでもないのに、何か文字を書き連ねずにはいられずに、書き連ねると言って今では紙とペンを用意するわけでもなく、かたかたキーボードのキーを叩いて、エディタに文字が並ぶのを左から右へ眺めている。

 何か言葉が浮かぶと同時に指が動いて、モニタの画面に文字が出て来る。思考が先か指が動くのが先か、時々分からなくなる。文字を吐き出しているのが、一体私の脳──ほんとうにそんなものが存在するとして──なのかこの指先なのか、けれど恐らく、私の脳が働くのをやめれば、きっとこの指も動かなくなってしまうのだろう。


 キーボードをかたかた叩く。その行為が、私の目の前に文字を生み出す。キーの感触、押せば引っ込み、指を浮かせれば元に戻る。かたかたと言うよりは、むしろぱたぱたに近い感触。私はかちりとしっかり押し込むタイプの、キーのぶ厚いキーボードよりも、ノートPCによくある、奥行きのない薄いキーが好きだ。夜中にひとり起きていても、かちかちと言う音で他の誰か──今ではもうその心配はないのだが──を起こすこともない、薄い薄いキーが好きだ。

 キーボードのキーの打ち具合は、案外と書く気分を左右する。或いはそれは単に、何となく書く気が起こらない時の言い訳だろうか。


 ビリヤードを真剣にやっていた時に、セミプロの友人が私のキューを欲しがったことがある。

 まだ初心者だった私の持っていたキューだから、先がどうの握った時のバランスがどうのと理屈をこねて選んだわけでもなく、単に握りの部分の色が好きだと言う理由で私が手に入れたそのキューを、なぜか彼はひどく気に入って、1本のキューに平気で10万近くかそれ以上を払う友人が、私の、1万も払ったかどうかと言うそれを、ずいぶん長い間私に譲ってくれとごねていたものだ。

 数ヶ月過ぎた頃、私はついに根負けして彼にそれを譲り、代わりにと彼が私用に1本選んでくれたものと交換と言う形で事態は収まった。

 新しいキューの握りは、特に私が好きと言う色ではなかったが、使う内に目も慣れ、初心者が道具にこだわったところで技術が必ず上がるわけでもないと理解して、私の指と腕は次第に新しいキューに慣れて行った。

 友人は、私のものだったキューを一種の幸運のお守り的にして、大事な試合には必ず持って行くようにしていた。移り気な彼が、今もそのキューを持っているのかどうか、私は知らない。

 その後手に入れた他のキューと一緒に、私のキューたちはケースに入って今は押入れの中だ。今もビリヤードは好きだが、私の真剣な気持ちはずいぶん前に失せてしまったままだ。


 道具がどうのと言うのは、結局使う人間の思い込みと言うのが大半なのではないかと思う。安物だろうと目の飛び出るほど高価なものだろうと、使い勝手がよければ問題はない。

 宝の持ち腐れと言う言い方は、特に私のような人間には耳の痛い表現で、時々何万もするキーボードに心魅かれてしまうのだが、道具にお金を掛けたからと言って、自分が満足する文章が生み出せるわけでもない。

 文章など、その気になれば、手の届くところにあるボールペンとマクドナルドの紙ナプキンさえあれば何とかなる。私が今こうして並べている言葉たちが、例えば何十万もするAppleのコンピューターを使ったものか、たまたま机の上に散らかっていた裏の白い書き損じの紙の上に書かれたものか、そんなことは文章そのものには無関係だ。


 ふと思うが、私はもしかすると、指と手を動かして紙の上に文字を記す作業よりも、キーボードを叩く作業の方が好きなのかもしれない。

 私の書き文字が読めた代物ではないとか、私自身が自分の文字を嫌いだとか、そういう理由は実は後からひねくり出したもので、私は単に、手で字を書くと言う作業が(それほどは)好きではないのかもしれない。

 キーボードを叩くと言う動作が好きであることは間違いがない。英語のブラインドタッチが必修と言う機会があり、その時は何の役に立つかと思ったのに、日本語もローマ字入力──それまでは我流のかな入力だった──に変えれば入力作業が楽になると気づいてからは、すっかりペンと紙から離れてしまった。

 それを堕落と感じて自省したこともあったが、結局私は、その時にキーボードのキーを叩くと言う作業が好きなのだと気づいてしまっただけだったのだろう。


 私の指がキーボードを叩く。モニタに字が現れる。私が思う通りの字がそこに並び、私は字を並べて言葉を出し、言葉を並べて文章を作る。

 気まぐれに、最近買った芯の入れ替えのできる安物のボールペンで、手近な紙に殴り書きをしてみる。さらさらと滑るように出て来るインクのおかげで、なめらかに線が描かれ、気に入って入れたダークブルーのインクのその文字に、私はちょっと遠くを見るように目を凝らしてみる。

 小学生でももうちょっと読める字を書くだろうと言うひどい手だが、インクの色に幻惑されて、一瞬の間だけはそう悪くはないと思える。

 数秒の後(のち)、冷静になって自分の悪筆にやはりうんざりしながら、それでも久しぶりの自分の手書きの文字に懐かしさを感じることはやめられず、私はふと久しぶりに詩を書いてみたいとふと思った。

 あの頃はすべて手書きだったと、思い出しながら、私はモニタの無機質に美しい文字と、でこぼこの線が苦笑しか呼ばない自分の字を交互に見比べる。どちらも私だ。見た目はまったく違う。だがどちらも私だ。

 どちらがより私らしいのだろう。日記とも小説とも言えない文章と、詩と、これもどちらがより私らしいのだろうか。

 そんなことを考えて、モニタを見たまま、右手の薬指で 文章の終わりに句読点を打った。

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