バンドやろうぜ (6/13) |
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その頃私は、ちびベーと呼ばれていた。ちびでベースを弾いていたからだ。
黒いレスポールをだらっと下げて弾くギターはいつも伏し目で無口で、ボーカルはやたらとおしゃべりな明るいお調子者で、理屈っぽいドラムは皆から頭ひとつ突き出たのっぽで、共通するのはプログレが好き(とは言え、好きなバンドは違っていた)と言うことだけで、ドラムの作るむやみにポップな曲に、歌詞をつけるのは私の役目だった。
レスポは、ギターを抱えていないと人と話せないタイプで、それでもソロが始まると歓声が上がる程度には人気者で、ボーカルは放っておけば歌うよりもしゃべる方が時間が多くなるのを、いつものっぽが後ろからスティックを投げる真似をしては牽制していた。
私は黒か緑一色の姿で機材に完全に溶け込んで、弾いても弾かなくても曲の調子には一切関係がなく、皆といると、「おまえ誰だっけ?」と冗談でなくメンバーの友人知人から訊かれたものだ。
スタジオの時間に最寄り駅で待ち合わせをしていると、ベースのケースの影にすっかり隠れてしまうような私は、チューニングにヘッドにまともに手も届かないような自分が、なぜこのバンドでベースを弾いているのだろうと、練習の時には生真面目になる彼らを見ていつも思っていた。
私は器用貧乏でドラムも叩けたので、のっぽが練習に来れない時は確かに便利だったろう。歌詞を書くのも苦ではなく、曲はいいと言う評価は確かにあったから、私もそれほど捨てたものでもなかったのかもしれない。
ボーカルが歌詞を書き換えたいと言うたび、書き換えた後で「元の方がいい」と言うレスポと、「オレが書いた方がマシじゃね?」と混ぜ返すのっぽと、どちらがいいか自分で決められないボーカルと、ケンカになりそうでならない、3人と私の不思議な空気だった。
他により良いメンバーもいないと言う理由だったのかどうか、私たちは思ったよりずっと長く一緒にいた。デモテープを何本か作り、1枚だけインディーでアルバムも出した。
ライナーやジャケットの中に印刷される私は、ちびベーではなく一応は本名を名乗り、それでも無理矢理撮った写真の中ではやはり背景の中に溶け込んでしまって、私は相変わらず「誰?」と問われる存在であり続けた。
ボーカルが、最初にきちんと就職を決め、しばらくは背広姿でスタジオに現れたりしていたけれど、ライブのスケジュールが合わなくなり、ある日ついに「オレ、辞めるわ」と言ってバンドを出て行った。
他のバンドに入るのではないかとのっぽはしばらく言っていたけれど、ボーカルはほんとうにそのまま私たちの周辺から姿を消してしまい、結婚して子どももできたと、数年後に風の噂で耳にした。
すぐには後釜が見つからず、ソロの時以外は観客に近寄れもしないレスポに歌わせるわけには行かず、仕方なく次のデモの準備は私が歌う羽目になった。
マイクスタンドの前に踏み台が置かれると言ういたずらを、のっぽに何度かされ、「誰が歌ってんだ見えねえぞ!」と客から笑いと一緒に野次られた後で、人前で歌うことに慣れつつあった私はヤケクソで開き直り、ステージでも踏み台を使うようになった。
ベースも歌も中途半端なまま、私が足を引っ張っているのは明らかだったけれど、他の誰かを入れて何とか今保っているバンドの空気を壊すことが恐ろしくて、レスポものっぽも次のボーカル探しに本気の振りだけして、のっぽはこっそり前のボーカルに、戻って来ないかと連絡を取っていたようだ。
歌うようになっても、私は相変わらずちびベーのまま、野次られてもうまく切り返せない私の後ろで、いつもそれに野次り返して私のしゃべりを引き取るのはのっぽだった。
もう1枚、アルバムを出そうと、のっぽは必死だった。それに何とか答えようと、私も必死のつもりだった。
そして、そこからレスポが脱けた。
スタジオミュージシャンの話が来ていて、もう自力でやるのには限界がある、おれにはそこまでの才能はないと、いつもに似ないはっきりとした口調で、レスポは私たちの目を真っ直ぐ見てそう言った。
そうして、のっぽはドラムスティックを投げた。
曲も書けたし、キーボードも弾けるのっぽは、ドラムやバンドに固執する理由がなく、足手まといの私だけが残ったバンドに、悲しそうな淋しそうな一瞥をくれて、おまえと演れて楽しかったよと、そう言い残して去って行った。
レスポはサポートで、他のバンドやミュージシャンのツアーやアルバムのクレジットに名前を見掛けることがある。
ボーカルは普通にサラリーマンをしていて、今ではカラオケ程度で歌うだけになっていると聞いた(本気で歌うと騒音迷惑になると、ほんとうかどうか、同僚や部下に言われているそうだ)。
のっぽはプロデューサー業へ進み、自分で表立って演奏することはないけれど、名前を言うとああとうなずく人もいる。
私は今ではただのチビになり、ベースを弾いていたし歌っていたこともあったと言っても誰も信じない。1枚きりのアルバムはもう再生する機械も手元にはなく、ベースはケースごと押し入れの奥に押し込まれて埃をかぶっている。手放すことだけはできずに、それでももう中身を最後に見たのはいつだろう。
高い棚へ手を伸ばすのに、踏み台を使うたびに、唇へ触れたマイクの硬さを思い出す。上手いも下手もなく、ただ好きでそうしていた。弦を弾いて固くなっていた指先は、もう弦を押さえてまともに音を出すこともできないだろう。
誰にもすることのない昔語りだ。私にも、先のことなど考えずに何かに熱中していた時があったと言う、それだけの話だ。
息子が昨日、押し入れの中の私のベースを引っ張り出し、弾いてみたいと言い出した。やらない、貸してやるだけだと、私は息子に言った。明日、仕事の帰りに新しい弦を買って来ると、約束もした。
息子の友達に、ギターを弾く子がいるそうだ。その子のギターは、フェンダーだろうかストラトキャスターだろうかそれともレスポールだろうか。
ドラムを叩く子はいないのかと訊いたら、それは知らないと息子が答えた。
歌うのは誰だろう。誰が曲を書いて詞をつけるのだろう。まるで自分のことのように、私は少しうきうきしている。
バンドの中で透明人間だった私は、息子がたとえそうなっても、ベースを弾くことを楽しんでくれればいいと思う。
あの頃の私がそうだったように。食べることも寝ることも忘れて、うつむいてただ弦を弾(はじ)き続けた私と、同じように。
ベースの弦を買う店は、まだあそこにあるだろうか。楽器屋独得の匂いを思い出しながら、レスポやボーカルやのっぽの顔を思い浮かべて、アルバムの3曲目のサビを口ずさんでいることに、私は気づかなかった。
投稿者 43ntw2 | 返信 (1) | トラックバック (0)