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朝の顔 (6/21)

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 朝のバス停で、何となく挨拶する人がいた。

 会釈だけをしていた私に、おはようございますと声に出して返し、翌日から私は、その人におはようございますと言うようになった。


 必ず会うわけではなかった。会わない日にはどうしたかなと、何となく思うようになった。


 その人は他の人にもおはようございますと言い、私にだけ声を掛けるわけではなかったが、その人の声を通して、バスを待つ私たちは何となく繋がり、不思議な事にその人がいなければその他の私たちはまったく赤の他人同士の表情(かお)で、視線すら交わしもしない。


 挨拶以上の言葉を交わすわけではなかった。おはようございますと言ってそれきり、後は黙ってバスを待つ。

 ここでバスを待つなら、住んでいるのは近くだろうし、バスを使うなら車を持っていないか免許を持っていないか、あるいは事情があってそれらを使うことができないのか、もちろん不躾にそんなことを訊くこともできず、私はただその人のことを想像した。

 ひとり暮らしだろうかと、何となく考えて、だが歯切れのいい挨拶の響きは、人と交わるのに特に問題があるようにも思えず、きっと家族がいるのだろうと続けて考える。

 散歩の犬が通り掛かれば必ず笑みと視線を投げていたし、バス停の途中の家の前に猫の姿があれば、それにもおはようと言っているのが口元の動きで分かったから、どうやら動物好きらしいと察しられた。


 同じ程度に、人間も好きな人なのだろう。他人とは距離を取り、人と親しくなるのにひどく時間の掛かる私は、バスを待ちながら漫然と考えている。

 こんな私だからこそ、無礼と思われないように、会釈と挨拶は欠かさない。笑顔で挨拶をしている限りは、人はその人物を危険とは見做さないものだ。

 私は危険人物ではないが、厄介者と思われ面倒に見舞われることは避けたい程度に、人が苦手で俗人なのだ。


 その人はそうではなく、ごく普通に、人当たりの良い、真っ当な人に見えた。

 誰にでも優しい人なのだろう。犬や猫にも、きちんと優しい人なのだろう。

 その人の声は、私の朝をいつも明るくしてくれた。その人に返すために、私はきちんと声を出して微笑まなければならなかったから、鬱陶しい夢で頭の重い日も、バス停に向かう間に背筋は伸びて、その人がおはようございますと私に声を掛けるまでには、私の気持ちはすっかり平常になっている。


 いや違う、私の平常は仏頂面の、何に対しても瞳すら動かさない怠け者なのだから、その人に会う時には、私はむしろ上機嫌と言うべきなのだろう。

 おはようございますとその人が言い、私の朝はそれで上等の朝に変わる。

 顔に出すかどうかはともかく、私は良い気分で1日を過ごし、またバスに乗って帰宅する。


 その人が、姿を消した。

 前触れはなく、せいぜい2日続けて姿を見ない以前と違って、それはもう何週間にもなっている。

 私たちはむっつりと黙ってバスを待ち、暑さや寒さや雨にしかめ面を浮かべ、自分以外がすべて人殺しか強盗と思い決めた風に互いを見て、その人を欠いた私たちは、同じバス停で同じバスを待つだけの間柄になってしまった。


 また戻って来るだろうかと、バスを待ちながら、私はいつも辺りを見回している。

 バスの時間を変えたのかもしれない。引っ越したのかもしれない。仕事が変わったのかもしれない。車を手に入れたのか、免許を取り返したのか、もうバスに乗る必要がなくなったのかもしれない。

 おはようございますと言う、その何の変哲もないごく普通の挨拶で、その人は私(たち)の朝を変えた。その人に変えられた朝は、残念ながらその人なしでは続かないようだった。


 近頃、人へ挨拶する時の私の笑顔は、以前以上にいっそう不自然な気がする。

 歯切れの良い発音を何とか思い出しながら真似て、私は誰に対しても何に対しても害意はないのだと、そう示そうとして、それが以前以上に上手く行かずに、ほんとうに逃げ回って隠れ住んでいる犯罪者のような気分に陥っている。


 あの朝が、私にはとても大事だったのだ。

 おはようございますと、あの声をまた聞けるだろうか。

 また会えたら、私は挨拶を返して、お久しぶりですと、すらりと付け加えられるだろうか。

 バス停の小さな人の群れに、その人の背中を探しながら、私は下がったままの唇の端を何とか数ミリ持ち上げようと努力して、何となく重い足を無理やり前へ出す。


 おはようございますと、そう言うだけで、世界を変えられる人もいるのだ。

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