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道の上 3

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 それから、彼は私がロビーのベンチに坐っていれば必ず隣りへやって来るようになり、プールで行き会えば、何となくそのまま一緒に外で落ち合って同じバスでターミナルへ行くと言うことが増えた。

 彼は私がそれをどう思っていると尋ねることはせず、断る理由も思い当たらなかった──あったところで説明もできない──私は、何となくそれを受け入れて、学校のない週末も、彼からの電話で一緒に外へ出ると言うことまで起こり始めた。

 何もかも、私が拒まなかったからだが、恐ろしいほど自然に彼は私の隣りにやって来て、私を外へ連れ出し、私の読む本を眺めて面白がりながら、私が読めそうな本を、さり気なく誘ってくれた街の図書館で一緒に探してくれるということまでやった。

 私は彼の話し方と言葉遣いを浴びるように聞き、耳から学んだその発音で、その頃一緒に住んでいたイギリス移民の家族に、

 「どうして君にはスペイン語訛りがあるんだろう。」

と訝しがられるほどだった。

 彼のおかげで私の言葉は上達しつつあったが、家族から得たイギリス訛りと、彼から移されたスペイン語訛りがごちゃごちゃと混ざり、もちろん私自身にはその自覚などなく、発音の奇妙さを指摘されたところで、わざわざ直すような余裕もなかった。

 セサミ・ストリートは、週末には朝から夕方まであちこちの局で繰り返し放送されていたから、彼の滞在先へ招かれて、彼のルームメイトたちと一緒に笑い転げながらモンスターたちを眺めて土曜の午後を過ごすと言うことも多々あった。

 そしてそんな時、彼は夕方少し日が翳って涼しくなると、よく長い散歩に私を連れ出した。

 彼の家は街の東側にあり、そこをもっと先へゆくと、湖から流れ出た長い河にぶつかる。その河は街々をずっと縦断し、いずれは別の湖へたどり着く。私は彼に教えられて初めてこの街にそんな河があることを知り、彼と一緒に、河に沿って作られた遊歩道を、彼は私に合わせて少しゆっくりと、私は彼に合わせて少し早足に、北へ向かってずっと歩き続けるのだ。

 すれ違う人たちは、明らかにいろんな血の交じり合った彼の、ひょろりと背高い姿にまず目を止め、それからその隣りにいる小柄な東洋人の私を見て、必ず少しばかり驚いた表情を浮かべたが、彼の隣りを歩くのに必死な私は、彼らの視線には滅多と気がつかず、彼らとすれ違った後で彼に、

 「はは、また変な顔された。」

と可笑しそうに言われて、初めて彼らを振り返って眺めるのが常だった。

 広い河にはよく船が通り、何ヶ所かに渡された橋は、そのたび真ん中で割れ宙に跳ね上がり、船を先へゆかせるために車の通りを止める。そんなものも生まれて初めて見る私はすべてが物珍しく、これもまた、彼があれこれ説明してくれるのに、ただ耳を傾けた。

 時々、その橋のひとつを歩いて横切り、河の反対側の岸へゆく。そこから少し西へ進むと、ひたすら畑ばかりが広がる辺りへ出る。家も人も車もまばらで、夜来たら、さぞかし淋しいだろうと思える場所だった。

 「夜になったら星がきれいなんだ。」

 今はまだ青い空を指差して、彼が言う。見渡しても街灯も滅多と見当たらないそんな場所で、街の灯のない暮らしなどしたこともない私には、何だか不安しか湧かず、それでも、ひとりきりでないなら、いつか夜空を見上げてみたいとも思った。

 ここには腰掛けの学生の私たちは、もちろん車など持たず、移動はすべて徒歩かバスの私たちは、暗くなってから会ったことはなく、今思い返せばそれは、もしかしたら彼も、私と一緒に夜空を見たいと、そう言ったつもりだったのかもしれない。そうすることは、無理ではなかったけれど、その時の私たちには少しばかり難しかった。



 一度だけ、彼と一緒に映画を見に行ったことがある。夕食の後に、ターミナルで落ち合って、街でいちばん大きな映画館へ一緒に行った。悪くはない映画だった。もちろん、台詞の大半が私にはきちんと聞き取れず、見終わった後で彼に説明してもらう必要があったが。

 夜には数の減るバスを待つ間に、私たちはコーヒーショップへ腰を落ち着け、相変わらず他愛もないことを話して時間を潰した。

 「夏が終わったら、自分の国に帰るんだ。」

 彼が言う。いつものように微笑んでいたけれど、そう言った後で、奥歯を噛みしめた頬の線が、はっきりと見えた。

 私たちは、小さな丸いテーブルに、高さの違う肩をわざわざ寄せ合うようにして坐り、彼のその頬の線を眺めて、私は自分の家族のことを突然思い出していた。今彼を眺めている角度が、ちょうど自分の家の食卓で、父親を眺める角度と同じだったからだ。私の父もよく何か内心に屈託がある時は、こんな風に奥歯を噛みしめた横顔を私に向けた。

 女性はそう言えば、こんな風な顔を見せないと、よそ事を考えながら、私は彼のその頬の線を見つめ続けていた。

 「もう、飛行機は決めたの?」

 「まだ。」

 短く答えて、彼は自分のコーヒーの紙コップへ視線を落とした。

 私はすでに、彼の帰国のことを、彼と同国人のクラスメートから聞いて知っていたから、大きなショックは別になかった。夏が終わって帰国するのは彼だけではなく、恐らくもう半年はここへいるだろう私を初め、居残り組の学生たちは、去った学生たちと入れ替わりにやって来る新しい学生たちを秋に迎えることになる。

 彼はもう自分の国で大学を出ていて、だからここの大学へわざわざ入学する必要はないのだ。

 私は、視線の先で彼と自分の父親を重ねて、この時初めて、彼を好きなのだと気づいていた。私にとっては永遠に安全な異性である父親と、何ひとつ似たところなどない彼もまた、私には安全な異性であり、そしてこのふたりがまったく同じような表情を私に見せていることが、私にはひどく意味深いことに思えた。

 彼の気持ちは知らない。彼はしばしば私と一緒に時間を過ごしたがったが、だからと言って何か具体的に私に言うこともなくすることもなく、私たちはまるで兄と妹のようであり、偶然だが、彼にはひとり妹がいる。私たちがこのように時間を過ごしているのは、そのせいもあったのかもしれない。彼を兄のように思い、そして今彼が自分の父親と重なったのは、私にはごく自然のことのように感じられた。

 ひとつだけ奇妙だと言えば、兄のように思う彼が父に似て見えた瞬間に、彼を好きだと気づいた自分の心持ちだが、恋愛と言うものに疎く、親しい異性と言えば家族しか知らない私には、家族のように思えなければ心を開けなかったのかもしれない。

 「ごめん。」

 不意に彼がそう言った。私を見て、私が泣き出したりしないように、心配しているのが見て取れる。

 「謝る必要なんかないのに。」

 泣き笑いになったりしないように、私は一生懸命笑った。紅茶の紙コップへ添えた指先が震えていたのに、私自身は気づいていなかったが、彼も気づかなかったろうか。

 「もしできたら、僕が帰る前に、一緒に星を見に行こう。」

 ずっと考えていたことをやっと口にした、と言う風に私には聞こえた。

 大層な自惚れ屋だと心の中で自嘲しながら、私は彼に向けた笑みをいっそう深くする。私たちが一緒に、いつかの夜に星を見に出掛けることはないだろう。私たちはふたりとも、そのことを知っている。彼の言葉をすべて振り払うように、私は肩をすくめた。

 バスの時間が近づいていたが、私たちのどちらも、まだ席から立とうとはしなかった。

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