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道の上 4 (了)

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 夏の終わりは素早くやって来た。

 最後の授業が終わり、卒業式などと言う形式ばったものもなく、私たちはただ講師たちにさようならと送り出され、後は好きなように好きなだけ、別れを惜しみたい学生たちだけが、惜しみたい相手たちと一緒にロビーに長々とたむろった。

 クラスメートたちとの別れの挨拶に忙しい彼は、途中で私をつかまえて、

 「週末に会おう。電話する。」

と、奇妙に切羽詰った声と表情で言い、私にきちんとそれを約束させた。

 私のクラスメートたちはほとんどが居残り組だから、別れを惜しむのにそれほど時間は掛からず、夏の休みの間にきちんと言葉を上達させておくことを互いに誓い合って、私はいつものようにセサミ・ストリートを言い訳に、その日はひとりロビーを後にした。

 彼は火曜日に帰国することになっていた。空港へ向かうのは早朝だ。もう、明日と明後日(あさって)、それから明々後日(しあさって)しか残っていない。

 ひとり帰宅するバスの中で、私は、彼の同国人の友人からちらりと聞いた話を思い返している。ほんとうのことかどうかは知らないが、彼はいずれは同じ教会の女性と結婚するのだそうだ。今現在、その対象の女性がすでに彼を待っているのかどうかは、彼らも知らなかった。どの種類の教会なのか私にわかるはずもなかったが、様々なしがらみで、彼は教会の外の女性と結婚することはできず、彼自身もその決まり事に反抗する気はないらしかった。

 彼と神の話をしたことがあったが、もちろん私に無神論や多神教の話がきちんとできるはずもなく、教会に関係したことはないし、これからもないだろうと、そう伝えるだけが精一杯だった。

 彼が教会の話など持ち出したのはそのせいだったのかもと、今になって思い至りながら、では私が、たとえば彼の教会に属してもいいと、そう答えたなら、私たちの状況は変わるのだろうかと、埒もなく考え続ける。

 そんな風に思うほど、私は彼を好きになってしまっていたし、それでいて彼との別れの現実が身には迫って来ず、まだ何とかなるのではないかと、夢のようなことを考えていた。

 もう少し子どもの頃に思い描いていたのは、好きだと気持ちが伝わり合えば、そこで何もかもがうまく行くと、そんな風な物語だった。そこから先はない。好き合っていれば、反対も障害もなく、そのままふたりはただ幸せになれるのだと、この頃まで私は心のどこかで無邪気に信じていた。

 実際には、山ほどの懸念があり、心配事があり、ハードルがあり、そもそも好きの度合いとベクトルが違えば、何も起こらないことも有り得るのだと、私はこの時生まれて初めて悟っていた。

 乗客の少ないバスの中で、いちばん後ろの席に坐り、そして、誰もこちらを見ていないことを確かめてから、私は少しの間涙を流した。声は立てず、涙だけが流れる、それを指先で何度か拭う、そんな泣き方をした。

 窓の外では、とっくに夏休みの子どもたちが、自転車を乗り回して甲高い声を上げて遊んでいる。彼らを見て、私はもう一度涙を流した。



 帰国の準備で忙しいはずの彼は、その合間にか何度か私に電話をくれ、別れの挨拶など何もせずに、私たちはいつもと同じような会話を繰り返す。

 そして月曜日、午後いちばんで遊びにおいでと言われ、早目の昼食をひとり先に済ませ、私は彼の家へ行った。

 「荷物はもう片付けたの。」

 「部屋はもう空だよ。一緒に帰るヤツがいるから、ルームメイトが空港まで送ってくれるんだ。」

 「そう、よかった。」

 明日の今頃は、彼はもう飛行機の中だ。そして私は、二度と彼に会うことはない。そのことには触れず、私たちはまたセサミ・ストリートの話をし、彼の国の話を聞き、それから学校の話をした。

 「アイスクリームは好き?」

 彼が突然訊く。

 「嫌いじゃない。」

 「じゃあ、後で食べに行こう。」

 彼の説明によれば、今までいちばん先まで行った、河の向こう岸をさらに北西に進むと、ぽつんとアイスクリーム屋があるそうだ。箱入りなら街中のコンビニエンスストアでも買えるが、ソフトクリームや普通のアイスクリームは、そこへ直接行かないと食べられないと説明して、

 「一緒に行こう。」

 私を誘うその言葉が、それだけではない響きを確かに帯びていたから、私はできるだけ軽くうなずいて、普段と変わらない態度を続けた。

 彼の家を出て、いつものように河沿いの遊歩道へたどり着き、それから橋を見つけて向こう岸へ渡った。天気の良い日だった。

 畑の間の道を、彼が先に歩き、私がその後を追う。私は彼の靴のかかとへ視線を落として、それが上げる小さな砂煙に時々目を細めて、何も言わずにそうして歩き続ける。

 時折車が通り過ぎてゆく。そしてもっとまれに、自転車が数台連なって、浅黒い肌の男たちが、私たちのやって来た方向へ走り去ってゆく。振り返って彼らを見送って、彼らも容貌からすると外国人だろうかと、そんなことを思った。

 彼は時々、私がちゃんと後ろにいるかどうかを確かめるように振り返り、そのたびにこりと笑ってからまた顔を元に戻す。彼も私も、砂埃で眼鏡のレンズがひどく汚れ始めていた。

 一体どれほど歩いただろうか。彼の言ったアイスクリーム屋は、ほんとうにぽつんと、畑の真ん中にあった。広々とした駐車場は、どこか別の場所から移されて来たように車があふれ、ひたすらに土色と空色と緑色しか見えないこの辺りの風景の中で、車の色は毒々しく見え、そしてアイスクリーム屋の目立つピンクは、そろそろ疲れ始めていた私の目には、むしろ懐かしく映る。

 「こんなに遠いって思わなかった。」

 私が思わず抗議するように言うと、

 「君はだっていつも文句言わないから。」

 歩くのは確かに気にはならないが、心構えのために一言あって然るべきだろうと考えついてから、彼の、

 「君らはクソ真面目だからなぁ。」

と言う、以前の茶化した台詞を思い出して、私はそのまま言葉を飲み込んだ。

 これもまた、彼と私の間の大きな違いのひとつだ。彼から見れば、私と私の同国人の学生たちは融通の利かない石頭で、私たちから見た彼と彼の同国人の学生たちは、あらゆることになあなあの、きちんと物事を決めることなどまったくしない人たちだった。

 彼らに笑われても、私たちはそれに対して言い返すことなどなかった──言葉の問題だけではなく──し、私たちは自分たちがいい加減と感じる彼らの自由奔放さを、実のところは羨ましさ一杯で眺めていて、違いが大き過ぎると、案外と喧嘩になどならないものだ。もっとも私たちは、売られた喧嘩には気づかない振りをし、喧嘩を売るくらいなら負ける方を選ぶと言う処世術を遺伝子レベルで刷り込まれているから、喧嘩の仕方を知らないと言う方がより正確なのかもしれない。

 彼はストロベリーのアイスクリームをひとすくい、私はオレオのアイスクリームをふたすくい、抱えて隅のテーブルへ行った。

 いつから、丸いテーブルの時には肩を寄せ合うようにして坐る習慣がついたのだろう。彼が始めたことだったが、今では私も、自分が後で坐る時には彼のすぐ傍へ腰を下ろすようになっていた。

 アイスクリームは甘かったが、確かに彼の言う通りに美味しかった。

 喉が渇いていた私は、彼よりも時間を掛けて、だがぺろりとそれをすべてたいらげ、ナプキンで口元を拭いた後も、私たちはすぐには席を立たず、しばらくの間、言葉も交わさずにただ見つめ合っていた。

 彼が、時計をちらりと見る。私も、自分の時計をちらりと見る。外はまだ明るい。時計を見て外を見てまた互いを見ることを、4、5回繰り返して、そろそろ行こうかと腰を浮かせたのは、私の方が先だった。

 店を出て、来たとまったく同じ道を、私たちは再びたどり始める。彼が前を歩き、私がその後へ続く。歩幅も歩調もまったく同じだ。太陽の向きと傾きは違い、風の吹く方向も違う。行きには見掛けた自転車は1台も見掛けず、時間のせいかどうか、車もまったく通らない。道の上には、私たちだけが歩き続けていた。

 見て来た風景を逆戻りしながら、今はどの辺りだろうと、私はふと周囲を見回す。彼の背中と足元ばかり見ていたから、景色に記憶がなく、河を渡るまでどのくらいか、結局見当もつかない。考えるのをやめて、私はまた彼の背中と足元へ視線を据え直した。

 何度目か、彼が振り返る。私がちゃんと迷わずに──どうやってこの1本道を迷うと言うのだろう──後ろにいることを確かめて、そして、彼は突然足を止めた。

 ぶつかりそうになりながら、私は前につんのめるように足を止める。どうしたのと見上げる私の目の前に、彼が自分の手を差し出して来た。

 彼の向こうに見える空は、もうただの空色ではなく、かすかに赤みを帯びて、薄く淡く、紫色の影を揺らし始めている。その色を見ながら、私は、自分が彼の瞳の色をよく知らないことに気づいた。同じ色の髪と瞳の人間ばかりが暮らす国から来た私たちには、他人の髪や瞳の色をいちいち気にする習慣がないのだ。

 私は、彼のことを何も知らないままだ。彼の誕生日も尋ねたことがない。彼の瞳は遠く、汚れた眼鏡越しには、どうやってもはっきりとは見極められない。これは何色なのだろう、目を細め、私は彼の瞳を眺め続けた。

 動かない私の手を、彼が取った。その手を引かれ、今度は左右に並んで、私たちはまた歩き出す。彼は、私の足の長さに合わせて、歩幅を半分近く狭めたように思えた。

 「明日は、朝早くここを出るんだ。」

 彼が言う。私は声を出さずにただうなずいた。

 「次はいつ国を出れるかわからないけど。」

 ぶつりと、言葉はそこで切れた。彼は私が何か言うのをまっていたようだが、私はもう、彼に対する言葉など何も持たず、ただ繋いだ手にばかり意識が集中して、これは一体どういう意味だろうかと、それだけを考えていた。

 彼の手が、私の手をぎゅっと握る。言葉よりは簡単なその動作を、私も真似る。彼の大きな手を握っているのは、意外と大変だ。こんなに、背が高いだけでなくあちこち大きな人だったのだと、私は今になって驚いている。

 もう、日差しはやわらかくなり、ゆっくりと赤みを増す空を時々見上げて、私は今は自分の足元を見ていた。私と足並みを揃えている、彼の大きな爪先。彼の手は歩くうちにずれ、私のためかそれともその方が彼も楽なのか、掌を真っ直ぐに合わせて、指の間に指を差し入れる繋ぎ方に変わっていた。

 気がつくと、目を凝らした先に、橋が見え始めていた。

 私は足を止めた。半歩先へ行った彼は、腕を引かれた形に私の方へ振り返り、何も言わずただ微笑みを浮かべる。今は橋に背を向けた彼が、何だか引き止めて欲しそうに見えて、きっとどうしようもない自惚れだろうが、この街から去りたがってはいないように私には見えた。

 行かないで。

 やはり言葉は出なかった。唇は動いたような気がするが、私はそれを、彼に伝わるように発することはできなかった。

 私は彼を見上げ、彼は私を見下ろしている。私たちの間で、手は繋がれていたが、それはいつでも簡単にほどけてしまう、心許ない繋がり方だった。

 私たちはきっと、同じように互いのことが好きなのだろう。だが私は彼から遠過ぎ、彼は私から遠過ぎる。それを乗り越えるほどの情熱は、私にも彼にもない。

 気がつくと、私は泣いていた。あの日バスの中で泣いたと同じ泣き方で、彼を見上げて、私は泣いていた。

 彼は、少しだけ困ったようにまた微笑み、私を止めようとはせず、ここから先に立ち去ろうともしない。

 彼の後ろに、夕空と橋が見えた。私たちが今帰るべき街の空と、そこへ私たちを繋げる橋だ。すぐそこにある。だが、私は今、そこからできるだけ遠ざかっていたかった。

 行かないで。また私は、胸の中でだけ彼に向かって言った。

 道の上に、私たちはふたりきりだった。私たちは足を止め、繋いだ手はそのまま、この道の上にいる。戻りもせず進みもせず、私たちは、道の途中で、そうして長い間見つめ合ったままでいた。

 容赦なく進んでゆく時間の中で、私たちのいる道の上でだけ、何もかもが止まっていた。夏の陽射しも暑さも、私たちの周りだけには届かずに、涙の乾き始めた私の頬に、もう夕方の風が触れてゆく。

 行こう、とどちらからも言い出せず、私たちはそこにただ突っ立っている。橋を越えれば夏が終わると知っている私たちは、この夏の最後の名残りを、一緒に惜しんでいる。

 この夏の日、道の上にいたのは、私たちだけだった。私たちだけが、夏の最後の瞬間を抱えて、道の上にいた。

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