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交通事故で死に掛けた私は、けれどリハビリ施設ではもっとも損なわれていない患者だった。
手足が揃い、脳の形も事故前とそれほど変わらず、ともかくも自力歩行ができて他人と意思の疎通ができる私は、もう右腕の肘から先しか動かない心筋梗塞後の患者や、糖尿病で両足を切断した患者や、何が原因か、全身麻痺の少女と、和気藹々とは言い難い夕食を共にする。
心筋梗塞の患者は、時間は掛かっても器用に牛乳のカートンの上部を自分で開け、そして自力で食事をする。思わず手を出したくなるが、私は黙って自分の食事に集中する。
自宅へ帰れば、ひとりきりになってしまう人たちなのだ。
ひとりで歩いて食堂まで来れる私は、今では自分で着替えもできて、床に落ちたものも自分で拾える。排泄介助も必要ない。今日はベッドまで自分で整えた。
ほとんど寝たきりのひと月の後で、今私が夢に見るのは、自分の家のベッドで眠ることである。
そうして私は、心の内で、生き延びてしまったことを強烈に後悔している。
生き延びて、これからも生きようとしている人たちの間で、私は生き延びてしまった自分を嘆き、目も言葉も腕もあることを喜びながら、それでも確実に損なわれてしまった自分のことを嘆いている。
歩けることを喜びながら、排泄や風呂のたびに看護師を呼ぶ必要がなくなったことを喜びながら、本が読め、療法士と話のできることを喜びながら、私は自分が生きていることを後悔している。
轢かれたのが私であったのは賢明だ。
子どもではなく、妊婦ではなく、働き盛りの若者ではなく、脆いお年寄りではなく、適当に若く健康で、世話の必要な子もない私で、ほんとうに良かったと目覚めてから思った。
そして、事故前後の記憶のまったくない私は、これなら知らずに死ねたのにと、次の瞬間に思った。
轢かれたのは私であるべきだった。だがなぜ、私は生き延びてしまったのか。
私の命は、他の誰かのそれと引き換えにできるほど重くはないと言うことなのか。私ひとりの命では、代わりに誰かを救う価値などないと言うことなのか。
なぜ彼ではなく自分だったのか。なぜあの人ではなく自分だったのか。なぜ、自分ではなく彼女だったのか。
なぜ、私が生き延びてしまったのか。
夕食は、いくつかの種類から事前に選べるが、それでも味気はない。こうやって、自分の口と歯と舌と手と指で食事のできることに感謝して、味に文句を言えるのも自力で普通に食事ができるからだ。
生きると言うのは、生きていることを後悔し、食事に文句をつけ、そう言ったことを心の中に抱え込んで日々を過ごすことだ。
言葉がよくわからない振りをして、私は最低限の礼儀と笑顔だけを保って、味気ない夕食を口に運ぶ。生きることに正面から向き合っているように見える他の患者たちの、その心根の気高さに圧倒されながら、それを卑屈に隠して、私は硬い肉片を自分の歯とあごで執拗に噛み続ける。
投稿者 43ntw2 | 返信 (0) | トラックバック (0)