春の風 |
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今日、芝生の上に、いぬふぐりの花が小さく咲いているのを見た。
バスを降りた帰り道では、場違いに咲くすみれのような、小さな濃い紫の花を見つけた。野生の雑草にしては可憐過ぎる茎と花弁は、誰かがうっかり種を落としたものだろうか。
家に近づくと、小指の爪の半分もなさそうな、淡々しい白い花を見つけ、今日の風の強さが少し気の毒なその姿に、目を細めながら歩き過ぎる。
2軒手前の家の猫が、私の姿に気づくとぴんとふさふさの尻尾を立て、とことこと近づいて来る。
春がやって来たのだ。
この前の、雪もない冬にすっかり甘やかされ、この冬はブーツの調達と雪道にひと苦労だった。歩いても歩いてもバス停に近づけず、往復だけでぐったりする日々が、どうやらほんとうに終わるようだ。
この街は、世界地図を誰かが気まぐれに針の先ででもつついたように、半径十数キロの、北国にしては異様なほど気候の穏やかな地域にある。
車で数分行けば暴風雨なのに、そこできっぱりと見えない柵で仕切られてでもいるかのように、こちらはちょっと風が吹いているだけだったり、少し北へ上がると、もう家から出れないほど雪が積もっていると聞いても、ここはなすったように白く粉雪が舞っているだけだったり、だからこそ、そこそこ人が集まり、それなりに大きな街にもなったのだろう。
特にここ数年は、南にあるはずの別の街々の方が荒れた天気に襲われていて、ニュースを見るたびに少しばかり気が引ける。
わざわざ選んでこの街に住み着いたわけではないが、この辺りだけがこんな風なのだと、この街で生まれ育った人々に言われて、ああそうなのかと、自分の幸運さをありがたく思う。
数日風の強いのに閉口していたが、どうやら春風のようだ。
リスたちが歩道を我が物顔で走り回り、木々の枝の先にはまだ芽吹くものは見えないが、そこもじきに緑であふれるだろう。
春が始まる時はいつも突然だ。昨日は冬の終わりだと思っていたら、今日にはもう春の半ばのように、そんな風にして、この街の春は唐突に始まる。
灰色と枯れた茶色に染まっていた街が、色とりどりになる。花たちは、何もかもを吹き飛ばすように茎を伸ばし、花弁を広げ、色をあふれさせて、やっと肩と背を伸ばして歩けるようになった人間たちを圧倒するのだ。
芝生に生える草花を、すべてまとめて雑草と呼ぶ味気ない人々は、その花々を大切には思わないようだが、雑草と呼びながらそれらを花と数える場所から来た私は、芝生刈り機のエンジンの音があちこちから響き始めると、首を刈られたたんぽぽたちのために、口を閉じてただ心を痛める。
春は、明るく楽しいだけではない。
外へ出始めた動物たちがあちこちで車に轢かれ、即死ならよかったのだがと、血の乾いた毛皮の残る姿を目の端にとらえて、車のない生活が始まってからほとんど高速へ出ることのなくなった我が身を、私はずるくありがたく思う。
自然は決して敵ではない私にとっては、春はただ歓びの季節のはずだが、巡って来た様々な命の在り様が、まざまざと見える季節でもある。
私たちだけが我が物顔に歩き回るだけではあるまいにと思うが、道路を横切るアライグマを避けて歩道を歩く親子を弾き飛ばしてもいいのかと、そう反論されれば黙るしかない。
春に見え始める命には、区別はないはずだが、その重さには確かに違いはある。私が自分の命を比較的軽いと感じると同じ程度に、人々は自分たち以外の生き物の命を、自分たちのものよりも軽いと思うようだ。
体の重さで命の重さを量るのはどうだと、愚かしく真剣に考えたこともあったが、それではますます道の端の草花や体の小さな生き物たち(道路で轢死する羽目になるのはほとんど彼らだ)が軽視されるだけになる。
鳥を捕まえた蛇が、自分の腕をやるから鳥を放してやれと言った僧に、「鳥の命はお前の腕の重さ程度なのか」と反論したという話は、一体いつどこで聞いたものか。
蛇の腹を満たす肉の量と思えば、僧の腕で足りるのかもしれないが、命まるごとひとつと思えば、一体何がどれほどならそれと等しいのだろう。
使える臓器を全部寄付して、残りは廃棄と言う形にでもしてはくれないかと、自分のことを考える。麻酔なしで解体されるのはごめんだが、解体後に生存が無理なら、そのまま放置して廃棄してもらえればあちらもこちらも助かるのにと、真剣に考えるのは世界に私ひとりと言うわけでもあるまい。
命を少しずつ、他の誰かに分けるという技術は、一体いつ生まれるのだろう。削った命が元に戻らないのだとしても、付け足したそれで誰かが少し先へ生きられるのなら、それはそれでいいのではないかと、私は無責任に能天気に考える。
即死にはしない臓器を分け与えると言うことが、恐らくそれにいちばん近い行為だろうが、それができるからと言って私はその考えに飛びつきはしないだろう。実際に少しずつ体を削ると言うことには、単純に恐怖がある。
そうして私は、自分の命を誰かに分け与えたいと思う自分の気持ちが、結局はその程度の、頭の中でもてあそんで悦に入る程度の、単なる自己満足の放言に過ぎないのだと思い知る。
春になればあふれるようにあちこちで生まれて来る猫の子たちを、すべて引き取って世話をしたいと思うのは自由だ。親がなければすぐに死んでしまう子猫たちを、可哀想と思ったところで、すべてを救うのが不可能だと私は知っている。すべてどころか、1匹すら引き取れる状態ではない。
私の命は、子猫1匹と同等だろうか。あるいは、体の重さで、私の命で数十匹の子猫たちが救えるだろうか。救って、そして、どうなるのだろう。
私が死んでも何も変わらないが、私が死ぬことで、変わる何かが未来にはあるのだろうか。あるいは、私が生きて春を迎え続けることで、何か良いことでも起こるのだろうか。
起こるはずだと信じたい私の気持ちは、できれば速やかに廃棄されたいと言う気持ちと矛盾している。
短い春の後には、もっと短い夏がやって来る。突然に秋が始まって同じほど唐突に終わって、他の季節よりも長い冬がまたやって来る。
何が起ころうと、季節はこうして巡り、1年が過ぎてゆく。私は思ったよりも長く生きていて、また次の春を同じように迎えるのだろうと思い込んでいる。
いつかの春に、できたら桜を見たい。今年の、あれはどこのものか、積もった雪の白さに、濃い桃色の神々しいほど映えた満開の桜の、そんなこの世の果てのような場所で、いつか桜を仰ぎ見たい。
どこかで買ったカプチーノの紙コップを手に、ひとりきりか、あるいは誰かと一緒か、桜を眺めて、春の空気を吸いたい。
この街にも、今年も春がやって来る。
投稿者 43ntw2 | 返信 (1) | トラックバック (0)