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金魚と私 * 6/19 |
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じゃあ、もらってくださいよ、とはまだ言えない。言った方がいいのかどうかもまだわからない。
私は黙ったまま夏の午後の窓枠を横目に、澄んだ闇と憂いを静かに混ぜ、不透明に明るい幕で覆う。バーだったら振ってしまうのだろうか。それともこれ以上触れないままの方がいいのだろうか。
でも、彼女も彼女も、そして多分彼女も、フレームの中だけの存在でないことが俺にはわかるし、少なくとも彼女は自分の恋を食べて生きていることもわかった。今はそれでいいと思えるようになったのも、きっと彼女のおかげなんだろう。
ただいまと言いながら、かかとをすり合わせて靴を脱ぎ、私は部屋の中へ入りながら大きくため息をついた。
人混みを肩を縮めて歩いて来て、自分の部屋にたどり着いて、薄暗いちょっと淀んだ空気の中の静けさに、私は全身の力を抜く。
「ただいま。」
今度はもうちょっと声を張る。ネクタイをゆるめて、荷物を適当に置いて、着替える前に床に坐り、そこだけ薄青く発光する小さな水槽の中で、私を正面から見ている小さな金魚へ向かって精一杯の笑みを浮かべる。
疲れが一挙に全身に押し寄せ、それでもひらひらと薄いひれをなびかせて私を見つめる金魚の、鮮やかな緋色から少しずつ金色に寄ってゆく鱗の連なりを見つめているうち、この部屋の外で今日も起きたことすべて、私の背中から次第に遠ざかってゆく。
「やあ。」
金魚に向かって、私はひらひらと手を振った。
顔の両側に飛び出した目、丸く開いた、ぱくぱく水中の空気を求める口、私たちの思う表情と言うものは特になく、それでも泳ぎ方や口の開き方やひれのなびき方で、金魚は確かな喜怒哀楽を伝えて来る。
触れるためには水の中に手を入れる必要があり、水の中以外で金魚は存在することはできず、この、せいぜいひと抱えほどのガラスの水槽の中で、わずかに置かれた水草の間をくぐるようにして1日過ごし、仕事に疲れて帰って来る私のどす黒い顔を眺めて、それが金魚のすべてだった。
そして金魚が、私のすべてだった。
水槽のガラスへ掌を軽く押しつける。指の付け根の、かすかに盛り上がった辺りへ、金魚が口を近づけて来る。水とガラスと空気に隔てられた、金魚と私の関係。金魚とふたりきりでいられたらいいのにと、私はもう長い間考え続けていることをまた考えている。
丸い張り切った腹、輝く鱗、どこまでも繊細に華麗なひれ、黒々と濡れた瞳、私だけが見ることのできる、金魚の姿。
私が与える餌と、私が与えるきれいな水と、私が与えたこのガラスの壁に区切られた小さな世界と、金魚はそれしか知らない。見つめる私の視線を受け止め、それを拒みはせず、この世界はこういうものなのだと、あるとも知れない脳みそで考えて、金魚は見つめる私を見つめ返して来る。
私は金魚を、たまらなくいとおしいと思った。
遅くなった昼休みに、何を食べようかと考えながら歩いていて、ふと視線に入った喫茶店の窓の中に、カウンターに向かい合う人たちの姿が見えた。半分だけ見える顔(男だった)とこちらに向いたちょっと丸い背中(女と知れた)。
一瞬顔の位置をずらし損ねて、ふたりの間の距離をうっかり測ってから、ようやく私は視線を外してまた歩き出す。
通り過ぎる交差点で、止まっていた車の中にいたふたり。腕の位置で、助手席の女が運転席の男に触れているのが分かった。
どちらのふたりも、窓の枠に切り取られて、水槽で仲良く一緒に泳ぐ魚のように見えた。
あれらのふたりは何にも隔てられてはいず、同じ世界に一緒にいる。同じ空気を吸い、互いの吐いた二酸化炭素を取り込み、吐き出しては吸い、一緒にいる。
金魚と私は、そのようなふたりにはなれない。ひとりと1匹。ふたりにはなれない。
この水の中に頭を突っ込んで、溺死することはできるだろうか。私の吐いた二酸化炭素を、金魚が吸う。そして吐く。金魚の吐いたそれを、死ぬ寸前の私が吸う。吸い込んだまま、死ぬ。そうして私たちは、かすかでも何かひとつのものを互いの肺の中に共有する。
あなたを愛す * 6/18 |
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買い物へ出るよう水を向けたのは僕で、アイスに名前を書かずに友人の部屋の冷凍庫に入れておきたくなったのも僕だ。そしておまけのように見つけたシャーベットに、小さく願を掛けて割ると、きれいにふたつになった。
うまく割れても割れなくても、友人の利き手に近い側の手にあるほうを渡すことは買う前から決めていたし、実際そうした。友人は僕がアイスをうまく割れるかどうか気にしていただろうか。どちらを渡すか気にしていただろうか。
ハンカチでぱたぱたと顔を仰ぎながら、通りすがりの喫茶店へ入る。このまま歩き続けるには暑過ぎる。少し休んで行こうと、素早く交わした目配せでそう言い合った。
彼女はアイスコーヒー、私はコーヒーフロート、メニューを斜めに見て互いに10秒も掛からずに注文は決まり、窓際の席で涼しい風を堪能して、私たちは路上を行き交う人たちを眺める。
路面からかげろうの立ち上る、夏の午後、汗を拭うのにハンカチ1枚では足りず、私はすでに使っていたハンカチをカバンの奥へ押し込んで、新しいのを財布の上辺りへ置いた。
「暑いね。」
「暑いね。」
ちょっと違う調子で言い合って、すぐに出て来た冷たい飲み物に、私たちはさっそく口をつける。
店内にぎっちりと満ちた冷たい空気で、汗まみれの皮膚は冷やされ、氷の浮いたコーヒーで喉の奥と胃が冷やされてゆく。
ようやく人心地ついて、私たちは同時につるつるしたテーブルへ肘をついた。
「飲む?」
彼女が、自分のアイスコーヒーを私の方へ差し出して来る。私は首と背中を伸ばして向こう側へ近寄り、ストローを唇の間に挟んだ。
すでに彼女が触れているそのストローから、私はひと口、ゆっくりと苦いコーヒーを飲む。
「飲む?」
お返しと言う素振りで、私は自分のコーヒーフロートを彼女の方へ滑らし、私がすでにそこに唇を寄せたストローの先に、今度は彼女の唇が触れる。白いストローに薄く茶色が走り上がってゆく先の、彼女の口紅がなくても十分に赤い唇に、私はじっと目を凝らしている。
「あまーい。」
「ブラックは飲めないもん。」
彼女が大袈裟に言うのに肩をそびやかして、彼女の唇の感触が消えないうちにと、私は急いでストローへ指先を伸ばす。
冷たいはずのコーヒーが、そのひと口は何だか熱く感じられて、唇を離した後で私はむやみにストローで氷をつついた。
彼女が、この間見た映画の話を始める。貧しい若者たちが何となく集まって、楽しく苦しく騒がしくバンドをやる話だ。きっと好きだと思うよと、彼女が私に言う。そうだろうねと私が相槌を打つ。
すでに見ていることは言わない。だったら一緒に行こうよと、彼女に言うためだ。私と一緒に、彼女はすでに見ているその映画を、もう一度見てくれるだろうか。
映画の前にお茶をして、映画の後に食事をして、そうして互いの乗り換えの駅で分かれて、私たちが友人同士でないなら立派なデートだけれど、私たちはただの友人で、今も彼女の買い物の付き合いに街に出て来て、私は内心とても浮かれている。
彼女はもう半分以上アイスコーヒーを飲み終わり、私はまだコーヒーに浮いたバニラアイスには手をつけず、良く効いた冷房のせいで、アイスは最後まで形を保っていそうだった。
外から見える私たちは、窓枠で切り取られてふたりきり、小さな水槽に入れられた魚のように見えるだろうか。区切られた世界にふたりだけで、誰も私たちを指差さず、私たちの存在を知りもしない、そんな世界。
溶けないこのアイスと同じように、一途な私の想いは、溶けてもコーヒーにはきちんと混ざらないのと同じに、どこにも行けず、何にもなれず、私の胸の中でただふくらみ続けている。
ずずっとちょっと品のない音を立てて、彼女がアイスコーヒーを飲み終わった。私も慌てて自分のストローへ視線を落とし、まだぼってりと丸い形を崩さないアイスの、わずかに黄みがかった白い輪郭を、なぞってそれが彼女のとても柔らかそうな頬の線に似ていると思う。
「ひと口ちょうだい。」
Re: なんなん?
恋愛には至らない、単なるときめき |
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好きと言うよりは憧れと言う気持ちが存在して、そういう憧れの気持ちすら浮気と思ってしまう、思われてしまう、と言うことを避けるために、事前に知らせておくつもりだった、と言うことではないでしょうか。
人によっては、その程度の憧れは恋愛中でもあることだしと、さらっと流せるでしょうが、場合によってはそっちの方がいいのか!と怒り出す彼女/彼の人もいるでしょうし、彼女さんにしてみたら、
「自分は憧れの気持ちを抱いてしまいそうだけど、それは別に彼君よりそっちの人が恋人として好きってことではないからね!」
と念を押しておきたかったのでは、と思うのですが。
決して過剰反応ではないと思います。他の異性を、あからさまに誉められていい気分がする人はあんまりいないでしょうし。
ただまあ、女性の側にしてみると、
「でもそんな素敵な人より彼君の方がいいの!」
と表現したつもりだった、と言う場合が多々あるのではないかなと。
それが伝わる程度に理解力のある器の大きい、懐の深い男性だと思われた、と言うことかもしれません。
うまくその辺り、お互いの言い分がうまく伝わるといいですね。失礼致しました。
(;ノノ) |
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何か気の利いた返しでもないかと、散々考えたのですが、やはり無能の域では無理でした。
一応小説らしい体裁を整えておくと、ほぼ必ず評価は高くなるようです。
普通に書いたエッセイ的文章よりも、やはり小説的表現に適した評価のようなので。一応。
白い背景に黒字でページにまったく装飾がなく、IDすら自分で決められないここでは、素の言葉の力と言うのが遺憾なく発揮されると思うのです。
IDを見る前に、読んだ文章で大体どなたの記事が分かると言う、そういう、何にも頼らない文章の個性と言うものを羨ましいと常々思っています。
自分の(小説状の)文章は、「小説体のものがあまり投稿されない」と言うこの場では、その点のみで目立つのだろうと思うのですが、どういう理由にせよ、誰かの目に留まり、読んでもらえて、意識のどこかに引っ掛かることができたら、それは書いた甲斐のあることだなあと思います。
社交辞令や世辞の分からない頑迷さを露呈させただけかもしれませんが、リンク先を見て、まず困惑しましたが、それでも素直にうれしかった(評価の結果ではなく、そこに"食わせてみる"、と言う風に、存在を記憶していただけてたことに)ので。
今日もまた、どうか良い1日でありますように。
ひとり言でした。
Re: http://kgq3vd.sa.yona.la/3
はさみの手 |
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Reply itext |
おいでと手を差し出すと、蟹の子はむっつりと唇をへの字に曲げ、そっぽを向いた。
何か言ったかしたかと、私はつい悲しそうな表情を浮かべて、蟹の子の顔を覗き込むようにする。蟹の子はますます意固地によそを向き、怒った時にはそうするように、小さなはさみの両手を頭上に振り上げた。
はさみの先が、顔を近づけていた私の、前髪の先へ軽く当たり、思ったよりもずっと鋭いそのはさみの切っ先で、すぱりと私の髪が切り落とされる。
驚いて私は身を引き、蟹の子も驚いて両手のはさみを胸の前に抱え込むようにして、私たちは一緒に、そこに落ちた髪のひと房を眺めていた。
ああ、と思わず私は声を上げ、だがそれは悲しみや悔しさや恐ろしさではなく、単に驚いただけの声だったのだが、蟹の子は両手を抱え込んで小さな体をいっそう縮め、さっきまでよそを向いていた顔をこちらに上目遣いに、心底申し訳なさそうな、そして怯えた顔をしていた。
大丈夫、と私は髪を切られた辺りの額を片手で押さえながら笑って見せる。蟹の子はそれでも表情を崩さずに、放っておけば泣き出すかもしれないと私は思う。
髪なんか、すぐに伸びるから。
できるだけ明るく、私は蟹の子に向かって言った。
無理はしていない。私のまったくの真正の本音だ。だが蟹の子は信じていない風に、ずりっと後ろへ半歩下がった。
これはいけない。何を言っても信じてはくれない。私はそう考えて、それがそのまま表情に悲しそうに浮かんでしまい、蟹の子はそれをどう取ったのか、今度こそほんとうに泣き出しそうに、真っ黒いつぶらな目を潤ませて、だから海の水は辛いのだなと、私はよそ事を思う。
蟹の子を泣かせてはいけないと、私はそればかりで頭の中をいっぱいにして、そうしてひらりと思いついた時には、手の中に大きなはさみを握り締め、その、蟹の子どころか、私の掌の2倍もありそうなはさみで、掌いっぱいにつかみ取った後ろ髪を、じょきりと一気に切り落とした。
蟹の子は声は上げず、だが意外な表情豊かさで、全身で呆気に取られ、私をあの真っ黒な目をいっぱいに見開いて見つめ、私はそれに応えるように顔いっぱいで笑うと、手の中につかんでいた、私から離れてしまった髪の毛を、後ろの方へぱさりと放った。
ざくりと切った今は揃わない後ろ髪が、あごの線を撫でて来る。面倒くさい長さになってしまったと私は感じた。
蟹の子は、呆然とした後で気を取り直し、そしていっそう色濃く悲しげな気持ちをそこへ刷くと、赤い体がなんだかひと色失せたようで、人も顔色を失うが、蟹だって同じように青くなるのだと、それはとても場違いで不思議な発見だった。
触わると、痛い。
蟹の子はまだ両手を抱え込んだまま、ようやくぼそりと言った。
何だって?
よくわからず私が聞き返すと、蟹の子はうつむいて、ふるふる広いが薄い肩を震わせて、はさみの手では傷つけずに優しくは触われない、と小さな声で言った。
今度は私が呆気に取られた。
ああ、そうだったの。
だから私が近寄ったり、近寄らせたりしようとすると、あんな顔をして見せたのだ。
蟹の子が私をまた上目遣いに見る。私は蟹の子を見下ろし、微笑んで見せる。私の笑顔を見て、蟹の子はようやく胸の前に組んでいた腕をほどいた。
蟹の子へ向かって体を近づけると、切ったばかりの中途半端な長さの髪が、ふわふわと顔の回りに散った。その眺めは思った以上に慣れず、顔をしかめかけた私は、思いついたままを蟹の子へ向かって口にしていた。
髪を切るのを手伝って。
言いながら、私はまたひと房目の前に垂れた髪の毛を指先につまみ、ぶすりと手にしていたはさみで切り落とす。そしてまた別の次のひと房。
そうしながら、蟹の子へいっそう頭を近づけて、髪の毛が届くようにしてやると、蟹の子はゆらりと立ち上がり、私の方へはさみの手を伸ばして来た。
ぱさりぱさり。ばさりばさり。私の髪の毛がどんどん切られてゆく。次第に私たちは愉快になり、笑い転げながら髪を切り続けた。
垂れる長さが足りなくなると、私は蟹の子を用心深くつまみ上げて肩に乗せ、そこで髪を切るように頼んだ。
私は、蟹の子から遠い方の髪を盲滅法につまみ上げては切り落とし、最後には私も蟹の子も髪の毛まみれになり、つんつんと逆立った私の髪は長さもてんでばらばらな、ひどいざんぎり頭になった。
私は、額からうなじまでをひと撫でし、掌に芝生のように当たる髪の意外な柔らかさに目を細め、ありがとう、と蟹の子に言った。
切った髪はどうする?
蟹の子が、私の肩から下を見下ろして訊く。
さあ、持って帰ったら鳥が巣材にするかも。