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膚と背中

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 男が、切羽詰まった様子で私に触れて来る。飢えているような手つきで、男の飢えが、自分とは違う女の体に対してなのか、自分ではない他人のぬくもりになのか、それとも私個人と言う、とりあえずは取り替えの利かないことになっている、特定の誰かに対するものなのか、男の指先を受け入れながら、私はいつも考えている。


 好きと嫌いで言えば、好感の持てない相手に触れられることなど我慢できず、だから私は、この男のことが好きには違いなかった。

 女に慣れていない風もないのに、女と女の間が長くなれば、それなりに物珍しさと飢餓が湧くのか、男の態度は夢中のそれだ。

 とは言え、それにあっさり自惚れるほど私も自信過剰ではなく、どこと言って取り立てて綺麗でもなければ、変わったところもない自分に、あえて自慢できる部分と言えば、触れた誰もその場で声を失う膚だろうか。


 触れる最初に、男はいつも私の服をとにかく剥ぎ取ろうとし、女の服の常で、ボタンだジッパーだホックだと、あれこれうるさいものがついていて、決して不器用でもないらしい男の手を毎回煩わし、静かになった後で、そんな小物のいくつかがどこかへ消えてしまっていることも珍しくはない。

 おかげで私は、裁縫セットをそっと持ち物のひとつに加える羽目になった。


 私の膚を剥き出しにする。そうして男は、自分の着ているものを引き剥がすように脱いで、肌と肌を触れ合わせる。冷たかったり、あたたかかったり、思いがけない体温に驚いたり、あるいは汗に湿っていたり、やすりにでも触れたように乾いてざらついていたり、自分の膚に触れても何と思うわけもないが、男の肌に触れるたび、その微細な変化に気づいているのは私の方だけなのだろうか。

 私の肌に触れて、男は何を思うのか。それが優しさのつもりなのかどうか、歯を立てたり乱暴な跡を残したりは決してしない男の、微笑みを誘う思いやりに、全裸で男と触れ合いながら、私たちは一向に心の内の本音をさらけ出そうとはしない。

 内臓や筋肉や血管で触れ合うのは無理にせよ、ほとんど1枚のそれになりそうに肌を近づけて、息や体液を交換し合っているのに、私たちの心は一体どこにあるのか、こうして抱き合う理由すら、私自身のそれすら定かではないまま、男は明らかに私と寝ることを望んでいて、私は男の素肌に触れることを愉しんでいる。


 素肌──正確には、完全なる素の素肌ではない──の手触りに、男の暮らしが現れている。時々大きな傷跡が触れ、飾りではない日焼けの名残に、かさつきの激しい部分のある、肩や首筋の辺り。顔の皮膚は決してなめらかではなく、男の頬に掌を当てながら、時々私は、意地悪ではなくやすりに触れているようだと思うことがある。

 男の肌が私の肌をこする。傷つきそうで傷はつかないやり方で、私の全身の肌をこすり上げて、その間に空気がたまり、抜け、汗が湧いて滑る。

 曲げれば筋肉の形がはっきりと浮かぶ腕が、私の首を抱え込んで、ほとんど絞め殺すように──二重の意味において──私の体全部を抱きしめて来る。


 男が私を絞め殺そうとすると、私もお返しに男を絞め殺そうとして、全身をたわめて、ゆがめて、ねじって、深く切り過ぎないようにいつも気をつけている足の親指の爪の先で、男のアキレス腱の辺りを引っかいてやる。

 痛みに、男は一瞬だけ我に返り、下にいる私に向かって目を見開き、そうすればこれが私だと確認できるし、私を自分の下に引き留めておけるとでも言うように、私の左の乳房をつかみに来る。

 時によってはひどく痛むその仕草に、私は眉根を寄せて、男はその私の表情を、何やら別のことに勘違いする。その勘違いを、私は修正もしない。どれだけ近く触れ合っても、私の痛みは私だけのもので、男の感覚は男だけのものだ。

 与えられる痛みを、男に伝える術などなく、男が私の中で感じていることなど、私には知る術はない。

 こうして、世間的には愛──読んでも書いても言っても、感情をこめられない言葉だ──と言われる風に私たちは抱き合いながら、互いのことなど何も知りようがない。


 男は私と寝たがり、私はそれを拒まない。好きと嫌いで言えば、私はこの男が好きなのだろう。男の素肌に触れる。私はそれが好きだ。

 それだけが取柄らしい、私の柔らかな膚。男の、かさついたぶ厚い指先が触る。皮膚の下にももぐり込みたそうに、指先を押し付けて来る。男の指先の形を肌の上に感じるたび、私は男の指先が、私の血管に触れることを想像する。

 感心なことに、男は私に触れる前にはきちんと爪を切り揃えて来る。やや短いと思うくらいに、丸くきれいに切って、そんな切り方をしては、切られた爪の端で皮膚を傷めてしまいそうなくらいに、男は癇症に爪を切って来る。

 その男の指が、私の中に入って来る。腿の内側に触れて、他の部分よりも薄い柔らかなその膚に、男が時々息を詰めるのがわかる。

 私の中も、首筋や背中の膚と同じように、柔らかくて張りつめていてほのかにあたたかいのだろうか。私には分からない。触れている男にしかわからない。


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 「その頭、どうした?」

 鏡台の前にぺたんと坐って、何とか櫛を通そうとしている私の後ろで、鳥が何かをついばむようなかすかさで訊いて来る。私は振り向かずに、鏡の中の自分に視線を据えたまま、ちょっと肩をすくめて見せる。

 「切ったの、自分で。蟹の子と一緒に。」

 ぶつぶつと切り落として、長いところは多分2センチくらい、短いところは1センチもなさそうな私のザンギリ頭を、鳥は小首を傾げて眺めている。

 「かにのこ?」

 「そう、はさみで、ふたりで一緒に切ったの。」

 鳥は振り向かない私に焦れたように、ちょんちょん畳の上を飛び跳ねて、だらしなく投げ出した私の足首へ飛び乗り、そこからちょんちょんと、スカートに包まれた腿の辺りへ登って来る。

 「なんで切った?」

 どこか怒ったような声で鳥が訊く。小さな体の、丸々とした胸をそらして、まるで威嚇するように尋ねるが、その黒くて丸いつぶらな瞳では、どんな低めた声も凄みなどない。

 鳥はそこからはたはたと羽ばたいて、私の肩に乗って来た。

 ピアスのない私の左側の耳朶を鋭い嘴で、だが充分に用心した強さでつつく。じゃれ掛かられているようなその仕草に、私はくすぐったいと肩をすくめ、櫛を持っていた手を下に下ろす。

 「どうしてかな、突然切りたくなったのかもしれない。どうせすぐ伸びるもの。」

 ふふっと、自分でも驚くほど軽く、私は含み笑いをこぼす。

 鳥はさらに怒ったように羽をふくらませ、ぷうっと頬もふくらませたように、まるで鞠のようになって、私の首筋へいっそう近づいて来る。

 そうして、また嘴で、すっかり短くなった私の髪をついばんだ。

 「こんなになったら、遊べないじゃないか。」

 「ごめんなさい。」

 微笑みを消さずに、私は答える。

 そうだった、草を抜く私の後ろから、時々髪をつまんでは遊ぶのが、鳥は好きだったのだ。まさか鳥が、私の髪を惜しんでくれるとは思わなかった。

 「切った髪は持って帰ったから、巣材に使うといいわ。」

 「今年はもう巣は作らない。」

 「じゃあ来年。」

 「そんなに待ったらふにゃふにゃになる。」

 「ならないわよ、髪の毛は腐らないから。多分。」

 草の葉や木の枝とは違うのだと、どうやって説明しようかと重いながら言うと、鳥はどうも合点が行かないが、もうそれ以上は訊くのも面倒だと言わんばかりに、また私の頭をつつき始める。今度は、少しばかりさっきより強く。

 「痛い。痛い。」

 思わず頭を傾けて鳥の嘴から逃れようとすると、

 「つまむ髪がないからしょうがない。」

 まるで、私が髪を切ってしまったせいだと責めるように(実際に責めているのだろう)、鳥は私の頭をつつき続けた。

 「そんなに意地悪してると、蟹の子に羽根を切られちゃうんだから。」

 肩の鳥を追い払うように手を振ると、ひと時鳥は私の頭をつつくのをやめるが、すぐに、今度はぱたぱたと私の頭の周りを飛び回りながら、ちくちくつくつく、私の頭を嘴で突き続けるのだ。ついでのように、短い髪も時々引っ張ってゆく。

 「はね?」

 「そう、蟹の子のはさみはよく切れるんだから。気をつけないと。」

 私の前髪を、触れただけで切り落としてしまったように、あの蟹の子のはさみが鳥の羽根に触れたら、すっぱりとオレンジ色の羽毛が散るだろう。

 羽根を切られたら、鳥は飛べなくなってしまうかもしれない。そうしたら、鳥はもうどこへも行かずに、私の傍へいてくれるのだろうか。そう考えてから、私はふと淋しくなって、そう考えた自分がいやになって、振り払う手の動きを止めて、しんと鏡の縁へ視線を滑らせた。

 ふん、と鳥が、動かなくなった私の肩へまた止まり、再び虚勢を張るように丸く胸をそらす。蟹の子のはさみなんか怖くも何ともないと、そう言っているように、鳥の姿が鏡の中へ映っていた。

 蟹の子がここへやって来る時は、もうしばらくは必要のない髪をまとめるゴムの輪で、あのはさみをくるくる巻いておこう。色とりどりのゴムの輪を、蟹の子に選んでもらおう。あの鋭いはさみをゴムの輪で留めて、切るのには使えないようにして、そうして鳥と私と遊んでもらおう。

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9月

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 9月はあまりいい時期ではないらしい。

 ぱたりとやる気が失せ、すべきことにすら手を着けず、ただ無為に日々を過ごす。その無為に焦りを感じながら、それでも手も足も動かず、心は灰色に鈍麻したまま、美しいものよりも醜いと感じるものばかりが目に入り、ただただうんざりするばかりだ。

 そのくせ、もう何度読んだかわからない文章にひどく心を揺さぶられて、ページを繰りながら泣いていたりする。

 仕方がない。こんな時もある。


 好きな音楽も聞かず、本だけは読みながら、けれど自分で指先を動かすことはろくにせずに、1日の終わりに、ああ今日もまた何もしなかったと思う。そうして、頭の中は空白に満ちて、なかなか寝付けない夜を、これもまた空白に過ごす。何を考えても心が浮き立たない。何も私の頭をいっぱいに満たしてはくれない。ひもじい感覚ばかりがつのるのに、そのひもじさを癒せる何かがわからず、私は夜通し寝返りを打って、夜が明けたら少しはましになるだろうかと、そればかり考えて、朝の間近にようやくうつらうつらする。

 そうしてまた、同じ無為な1日を過ごすことになる。


 カフェラテを淹れることが非日常になるほど、何もない私の時間は、24時間などあっと言う間に過ぎ去って、その間に何をしているのかと言えば、音楽を聴くでもなく映画を見るでもなく、ただ言葉の切れ端を追って、垂れ流して、それだけでささやかに満足を得て(募る不満の方が結局は大きくなるのに)、夜の終わりを区切りながら、また眠れないまま朝を迎える。

 心も脳も、何かに飢えている。何かが足りない。何かが欲しい。

 だが私には、それが何なのかわからない。


 少しの間我慢していれば、事態はそのうち好転する。

 なぜあんなにも、醜いと思うものばかりに目を突き刺されていたのかわからないほど、美しいものが目の前に甦って来るし、世界は音楽に溢れて、素晴らしい言葉に満ちているとまた思えるようになる。

 私は笑顔を取り戻し、弾むように道を歩き、挨拶をする相手が自分に微笑み返してくれるのに、心の底からまた感謝できるようになる。

 私に向けられる笑顔は決して無駄や社交辞令ではなく(もちろん私の誤解の場合もあるが)、たまには誰かが自分を好いていてくれるのだと、私は素直に信じられるようになる。


 紅茶やカプチーノを淹れるのを、思いついた瞬間から飲み終わってカップを洗い終わるまで事細かに実況して、ネットのどこかへ垂れ流すような日々はひとまず終わり、私はようやく、何かそれなりにまとまったものを書きたいと思い始める。

 何でもいい。それこそ、カプチーノの自己流の淹れ方だっていい。ある日のカフェラテの会心の出来を、事細かに描写するのだって構わない。私がそれを楽しめるなら、心底楽しんできちんと書くなら、何だっていい。

 カプチーノを淹れるのが非日常の私の日々にとって、思わず出来た最高の味は、微細に描写するに値する。


 私は恐ろしく退屈な人間で、それに劣らず退屈な日々を送っている。私はそれを、それなりに楽しんでいる。楽しい限りはこれでいいじゃないかと、美しいものが美しく見える限りは思い続けるだろう。

 書き続ける限り、私は呼吸しているのだし、私は自分の脳を使って考えているのだし、私は間違いなく生きている。生きているなら、今はそれでいいじゃないかと、こんな時にはすらりと考える。

 退屈な人生、先行きなど何も見えない人生、非生産的で、非社会的で、外へ向かって胸を張れるものなど何もない人生、それでも私はひとまず、ここにいて息をしている。少なくとも今私は、消えてしまいたいとは感じてはいない。

 それで充分じゃないか。


 卑怯だと言われようと現実逃避だと言われようと、私は今、美しくて楽しいものだけを見ていたい。呪詛も毒も必要ない。私は自分の憂鬱を抱きかかえるのに必死で、他の誰かの怒りや嫉妬や不愉快を、目にして抱え込めるほど寛大でも寛容でもない。

 悲しみや淋しさの共有はやぶさかではないが、私と同じように努力を嫌う人間が、努力の果てに才能を花開かせた誰かに嫉妬する、その心に同意しろと強要されるのは、今はただの苦痛でしかない。

 妬み嫉みがないわけではないが、そんな愉しくもない気持ちに、今は囚われていたくはないのだ。

 美しいものを生み出せる人の存在を、有り難がりこそすれ、踏みつけにしようなとどは思わない。世界を明るくしてくれるその情熱を、愛することはできても否定も妬みもできない。

 私が持っていないものを持っているあの人を、愛することはそんなに難しいことだろうか。


 音楽は美しい。言葉は美しい。描(えが)かれた線と塗られた色は美しくて、私はそれを目にして耳にして幸せになる。


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通学路

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 大通りで工事が始まって、そこをバスが通れないので迂回ルートを使う。臨時のバス停が設けられ、そこまで普段の3倍の距離(とか言ってもたかが10分足らずだ)を歩くのだが、今朝、歩く方向が真っ直ぐに太陽と対面することに気づいた。

 天気の良い日に、朝から太陽が輝いているのが眩しくて、久しぶりに世界を美しいと感じた朝だった。


 臨時のバス停は学校の前なので、通学中の学生たちと同じ方向へ向かって歩くことになる。

 よく一緒になるのは、3人連れの少年たちだ。両脇のふたりはほぼ同じ身長で、真ん中の子は彼らより頭ひとつ分背が低い。騒がしくしゃべりながら道いっぱいに広がって歩く彼らを見て、自分に子どもいたらあんな風にはしないと思ってみたりもする。

 この間は、どの子がどの子へ言ったのかは知らないが、

 「オレの親父でもないくせに!」

と言う会話の断片が聞こえて、ふと、こんなことを言う輩に限って、実の父親の言うことだからと、別に神妙に聞く気もないんだろうなと、そんなことを思った。

 今朝は彼らを見掛ける前にバス停に着いたのだが、相変わらず騒がしくやって来る彼らは、正面から眺めてもやっぱり騒がしい子どもたちだった。


 バス停には別にベンチがあるわけではないが、歩道の端に芝生との段差があるので、そこに腰掛けてバスを待つ。

 元々背の低い私には、地面に近い方が落ち着く癖があって、そうすると走り過ぎる車の助手席と目が合い、乳母車に乗って連れられてゆく赤ん坊たちと目が合う。

 目が合って、笑う赤ん坊もいるが、ほとんど驚愕と言った表情を浮かべる赤ん坊もいて、異人種がそんなに珍しいのだろうかと常々思っていたが、今日ふと、もしかすると私が掛けている眼鏡のせいかとふと思いついた。

 生後1年程度の赤ん坊に、顔立ちの違いや髪の色の違いがどのように見分けられるものが、私に分かるはずもなく、そんなことではなく、単に眼鏡を掛けた人間を見慣れないだけだと言う方が正確なのではないかと言う気がした。


 背の低い、大抵の場では異人種として存在する私は、子どもたちには、性別も年齢も見分けられない、よく分からない存在として認識されることが多い。身長のせいで彼らの仲間かと一瞬思うらしいが、私はたいてい彼らの親に連れて来られるので、それなら親側の人間なのかと思い直して、そうして、子どもたちは私に対してどういう態度を取るべきか迷うらしい。

 きちんと礼儀を持って大人として対するべきか、仲間として飛び掛ってテレビで見たプロレス技でも仕掛けてみるべきか、この幼稚な言葉遣いは大人のはずはないが、親たちはそれなりの態度を取っている、我々はどうするべきなのだろう、彼らの葛藤は、観察している分には非常に興味深い。


 大型犬には、よく新しいおもちゃと思われる。

 うっかり習慣で床に座ると、すぐさま頭上から飛び掛られて、人間相手の躾はされているはずだが、おもちゃ相手では話が別だ。声を発して初めて、

 「これは何だかおもちゃじゃない。」

とようやく認識される。

 おかげで、大型犬の近くへ寄る時は、必ず飼い主がその犬を押さえていることを確認するようになった。怪我をすれば自分も困るが、犬が処分でもされる羽目になるともっと困る。

 小型犬なら大丈夫かと言えば、こちらはこっちをあたたかい椅子と思うようだ。膝に乗ったり体に乗り掛かったり、多頭飼いの友人宅では、常時数匹が私の膝を取り合っている。

 どうやら膝がいちばん良い場所らしく、その次が腹の上、それからふくらはぎの辺りらしい。嫌われるよりはましかもしれないと諦めている。


 私はもう、椅子やおもちゃや何かよくわからない存在である自分を受け入れて、とりあえずまた明日も太陽が目の前に輝いていてくれればいいと、そう思うばかりだ。

 雨が降るとバス停までの道のりでびしょ濡れになってしまう。手持ちの傘が小さ過ぎるからだ。

 だが、雨の日もそう悪くはない。

 この間は、例の臨時のバス停で、高校生らしい男女のふたり組と一緒になった。雨宿りの場所もないそこで、ふたりは一緒に雨に濡れていて、少女の方は自分の荷物には頓着していなかったが、少年の方はシャツの下に教科書の束らしい四角いふくらみを隠して、そしてようやく目当てのバスが来ると、少女だけがバスに乗り、少年の方は、

 「あーあーまた濡れちゃうなー家まで歩いて帰らなきゃーあーあーもっと濡れちゃうなー。」


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はさみの手

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 おいでと手を差し出すと、蟹の子はむっつりと唇をへの字に曲げ、そっぽを向いた。

 何か言ったかしたかと、私はつい悲しそうな表情を浮かべて、蟹の子の顔を覗き込むようにする。蟹の子はますます意固地によそを向き、怒った時にはそうするように、小さなはさみの両手を頭上に振り上げた。

 はさみの先が、顔を近づけていた私の、前髪の先へ軽く当たり、思ったよりもずっと鋭いそのはさみの切っ先で、すぱりと私の髪が切り落とされる。

 驚いて私は身を引き、蟹の子も驚いて両手のはさみを胸の前に抱え込むようにして、私たちは一緒に、そこに落ちた髪のひと房を眺めていた。

 ああ、と思わず私は声を上げ、だがそれは悲しみや悔しさや恐ろしさではなく、単に驚いただけの声だったのだが、蟹の子は両手を抱え込んで小さな体をいっそう縮め、さっきまでよそを向いていた顔をこちらに上目遣いに、心底申し訳なさそうな、そして怯えた顔をしていた。

 大丈夫、と私は髪を切られた辺りの額を片手で押さえながら笑って見せる。蟹の子はそれでも表情を崩さずに、放っておけば泣き出すかもしれないと私は思う。

 髪なんか、すぐに伸びるから。

 できるだけ明るく、私は蟹の子に向かって言った。

 無理はしていない。私のまったくの真正の本音だ。だが蟹の子は信じていない風に、ずりっと後ろへ半歩下がった。

 これはいけない。何を言っても信じてはくれない。私はそう考えて、それがそのまま表情に悲しそうに浮かんでしまい、蟹の子はそれをどう取ったのか、今度こそほんとうに泣き出しそうに、真っ黒いつぶらな目を潤ませて、だから海の水は辛いのだなと、私はよそ事を思う。

 蟹の子を泣かせてはいけないと、私はそればかりで頭の中をいっぱいにして、そうしてひらりと思いついた時には、手の中に大きなはさみを握り締め、その、蟹の子どころか、私の掌の2倍もありそうなはさみで、掌いっぱいにつかみ取った後ろ髪を、じょきりと一気に切り落とした。

 蟹の子は声は上げず、だが意外な表情豊かさで、全身で呆気に取られ、私をあの真っ黒な目をいっぱいに見開いて見つめ、私はそれに応えるように顔いっぱいで笑うと、手の中につかんでいた、私から離れてしまった髪の毛を、後ろの方へぱさりと放った。

 ざくりと切った今は揃わない後ろ髪が、あごの線を撫でて来る。面倒くさい長さになってしまったと私は感じた。

 蟹の子は、呆然とした後で気を取り直し、そしていっそう色濃く悲しげな気持ちをそこへ刷くと、赤い体がなんだかひと色失せたようで、人も顔色を失うが、蟹だって同じように青くなるのだと、それはとても場違いで不思議な発見だった。

 触わると、痛い。

 蟹の子はまだ両手を抱え込んだまま、ようやくぼそりと言った。

 何だって?

 よくわからず私が聞き返すと、蟹の子はうつむいて、ふるふる広いが薄い肩を震わせて、はさみの手では傷つけずに優しくは触われない、と小さな声で言った。

 今度は私が呆気に取られた。

 ああ、そうだったの。

 だから私が近寄ったり、近寄らせたりしようとすると、あんな顔をして見せたのだ。

 蟹の子が私をまた上目遣いに見る。私は蟹の子を見下ろし、微笑んで見せる。私の笑顔を見て、蟹の子はようやく胸の前に組んでいた腕をほどいた。

 蟹の子へ向かって体を近づけると、切ったばかりの中途半端な長さの髪が、ふわふわと顔の回りに散った。その眺めは思った以上に慣れず、顔をしかめかけた私は、思いついたままを蟹の子へ向かって口にしていた。

 髪を切るのを手伝って。

 言いながら、私はまたひと房目の前に垂れた髪の毛を指先につまみ、ぶすりと手にしていたはさみで切り落とす。そしてまた別の次のひと房。

 そうしながら、蟹の子へいっそう頭を近づけて、髪の毛が届くようにしてやると、蟹の子はゆらりと立ち上がり、私の方へはさみの手を伸ばして来た。

 ぱさりぱさり。ばさりばさり。私の髪の毛がどんどん切られてゆく。次第に私たちは愉快になり、笑い転げながら髪を切り続けた。

 垂れる長さが足りなくなると、私は蟹の子を用心深くつまみ上げて肩に乗せ、そこで髪を切るように頼んだ。

 私は、蟹の子から遠い方の髪を盲滅法につまみ上げては切り落とし、最後には私も蟹の子も髪の毛まみれになり、つんつんと逆立った私の髪は長さもてんでばらばらな、ひどいざんぎり頭になった。

 私は、額からうなじまでをひと撫でし、掌に芝生のように当たる髪の意外な柔らかさに目を細め、ありがとう、と蟹の子に言った。

 切った髪はどうする?

 蟹の子が、私の肩から下を見下ろして訊く。

 さあ、持って帰ったら鳥が巣材にするかも。


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投稿者 43ntw2 | 返信 (3)

お茶にしよう

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 知らない街へ行くと、必ず喫茶店を探した。

 紅茶が美味しくて、居心地の良さそうな、そこでしばらく本を読んだり書き物をしたりして過ごせる、そんな場所を見つけるのが好きだった。


 住んでいた場所からひと駅奥へ行った、それなりに大きな街の、駅から真っ直ぐ行った、最初の大きな曲がり角の左側にぽつんとあったあの喫茶店、愛想のない外見のまま、店主は強面で無愛想で、けれど見たことも聞いたこともないような紅茶をずらりと揃えて、手作りのケーキが美味しい店だった。

 私はそこへ6年ほど通い、遠方へ引っ越してからは行く機会がなく、随分前に店が失くなったことを知った。

 今でも、あの店で初めて知った紅茶の名前と味と香りと、そして薄く粉砂糖の掛かったケーキの、手作りの素朴な甘さを鮮やかに思い出す。


 喫茶店に気軽に通うことができなくなり(車がなかったり、喫茶店などない土地柄だったり、理由は様々だ)、それでも相変わらずお茶なしでは1日も過ごすことはできず、物を書く時には必ず手元に何かないと駄目だから、結局は自分で紅茶の葉を探し、あるいはスーパーマーケットで適当に箱入りのティーバッグをつかみ、飲めれば何でもいい。紅茶であれば何でもいい。私のお茶飲みなど、常にそんな程度だ。

 前にも言ったような気がするが、砂糖は入れない。牛乳だけだ。クリームで我慢した時もあったが、今はもう無理はしないことにしている。紅茶はブラックでは飲まない。牛乳がなければ飲まない。ハーブティーは好みではない。

 牛乳をたっぷり入れると、ぬるくなる頃に猫に飲まれてしまうので、マグにはシリコンの蓋をかぶせてある。カフェインと猫は決して混ぜてはいけない。


 家だけでお茶を飲むようになって、外出先でお茶を買うことがなくなった。そうなる前に、自宅からすでに淹れたお茶を持って出る。中身はもちろんミルクティーだ。

 ある時、コーヒーの類いは外で買うと言う人間と付き合いだしてから、私もそれに習うようになった。飲みたい時に、淹れ立ての熱いお茶が飲めるのは、確かに素敵なことだった。

 この人間と付き合い始めてから、ふたりで使う金銭部分は私の管理下にあったが、私は現金をあまり持ち歩かないため、いわゆるポケットに入れて持ち歩く現金は向こうの管理下になり、コーヒーを外で買うイニシアチブは常にあちらの手の中にあった。

 「紅茶いらない? コーヒー飲みたいな。」

 そう言われれば、そうだねと一緒に店へ行く。コーヒーが買える店は、ほとんどどの曲がり角にもあり(やたらと教会とコーヒーショップの多い街だった)、この街全体が私たちにとっては自宅のキッチンのようなものだった。そんな時に、どうして自分の家でお茶を淹れようなんて思うだろう。


 そうして私は、外で歩きながら熱い紅茶を飲むことに慣れ、ポケットから小銭を出して紅茶を買うことに慣れ、そして、自分が飲みたいと思う前に、誰かにそうやって問われることに慣れてしまった。

 そんな私の目の前に現れたのが、かのスターバックスだ。そして私は突然カプチーノと恋に落ち、紅茶党でありながら、エスプレッソ系へも心を売ってしまった。私は裏切り者になった。

 大抵のところでは、紅茶はティーバッグで出され、まれに葉で出す店もないでもないが、そんなところはごくごく稀だ。その点エスプレッソは、きちんと淹れない限り店ではメニューには載らない(もちろん例外はある)。

 私は少しずつ、紅茶ではなく、他の飲み物を外では飲むようになった。


 ある時、ある事情で、私はまったく外へ出なくなり、スターバックスへ行くのは、懐ろ具合だけではなく、精神的にひどく贅沢な行為になってしまい、台所で火を使うことさえできなくなってしまった一時期、私は誰かが外から持ち帰ってくれる紅茶やカプチーノで、お茶への飢えをしのいでいた。

 紅茶のティーバッグがなくなっても、紅茶を淹れるための牛乳がなくなっても、自分では買いに行けない。そもそも、お茶を淹れるための湯が沸かすために台所へ行くことができない。台所へ行くために、階下への階段を降りることができない。最後には、湯を沸かすということ自体が自分ではできなくなってしまった。

 自分の家にいて、私は自分で飲むお茶すら自分で用意できず、スターバックスの営業時間が拡張されたニュースに、私はひとり喜んだものだった。


 私は今ひとりになって、自分で飲むお茶は自分で淹れることができる。出掛ける時には大抵紅茶持参で、週末の1日には、よくカフェラテを自分で淹れる。

 私だけが思うことだろうが、実のところ味だけなら、恐らくスターバックスのそれよりも美味いと思う。時々改心の出来にひとりでにやにやして、次も同じように出来たらいいなと考える。

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書き置き

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 家に帰ると、卓袱台の上に書き置きがある。電話の傍にいつも置いてあるいらない紙を大きさを揃えて切ったメモ紙に、一緒に置いてあるボールペンを使って、最初に私の名前が、きちんと宛名として記されていて、最後にはこれを書き終わった日付と時間と、そしてあの人の名前が書いてある。

 時々、字を間違えたり、書き方を変えたりで、そこはポールペンで黒く塗り潰され、裏返しても何が書いてあったのかはわからない。

 どこへ行く、誰と行く、何時に帰る、電話する、そんな連絡事項だ。単なる同居人の私たちは、特に取り決めたわけでもなく、こんな風に相手に書き置きを残す習慣をいつの間にか始めてしまっていた。

 一緒に食事をすることになっているから、外出時の動向を知らせておくのは大切なことだったし、一緒に暮らす相手に対する礼儀だとも私は思っていたから、こうやってあの人に、短く書き置きを残すのはまったく苦痛ではなく、帰った時に誰もいない部屋の中で、そうやって白い紙片が私を待っていると言うのを、実は内心で気に入ってもいた。

 ただいまと言って、お帰りと帰って来る。対面であたたかな食事を囲んで、他愛もないことを話しながら一緒に食べる。私たちは恋人同士でもなく、友人ですらなかったが、家賃と光熱費と食費と住む場所を分け合う相手として、互いのことを気に入っていた。

 どこか跳ねるようなあの人の字は、美しくはなくてもきれいでしっかりとしていて、どれだけ急いでいる時も丁寧に書かれている。今日の書き置きに記された時刻は、家を飛び出して駅まで走らなければならなかった時間だ。目的の電車には間に合ったのだろうかと、私は胸の内でだけ苦笑した。

 今日は帰らないそうだ。恋人と過ごして、明日の昼か夕方には戻る、だから明日の夕食は一緒だと、そう簡潔に記して、字間と行間の、普段よりやや乱れた印象を受けるのは、恋人と過ごす時間にすでに心が飛んでしまっていたせいだろうか。それとも私が、過剰に敏感にそれを嗅ぎ取ってしまうせいか。

 私は明日の予定は何もないから、黙ってあの人の帰りを待ち、書き置き通りに帰宅するなら、一緒に夕食を作ることになる。遅くなるようなら、いっそどこかで落ち合って外食としゃれ込もうか。

 まだあの人の書き置きを手に、私はふと、明日は午後にでも出掛けてしまおうかと思いつく。用などない。電車の距離に出掛けて、本屋でも映画でも、ひとりぶらついて来ればいい。

 出掛けます。帰りは夕方遅くなります。ここに電話します。夕食は一緒に食べましょう。

 あの人に宛てて、短く書き記して、壁の時計を見上げて時刻を確かめ、自分の名を書く。その紙片を、ふたりで食事をする卓袱台の上に置いて、私は部屋を出てここを無人にする。

 あの人はただいまと、どこか幸せそうな空気をまとって帰って来て、この卓袱台から私の書き置きを取り上げる。読む。ちょっと肩をすくめ、時計を見て時間を確かめ、とりあえずはお茶でも淹れようと、服を着替える前にお湯を沸かしに台所へ行く。そうしてあの人は、私からの電話を待つ。

 そんなやり取りを想像して、私は卓袱台にだらしなく肘をつき、膝を崩し、ひとりひっそりと笑う。

 そんなことをしたら、きっと残して行く書き置きに、あれこれ下らないことを書き連ねてしまうだろう。何だかひとりで淋しかった、書き置きを残してくれてありがとう、今夜会えるのが楽しみ、そんな風に、自分でもよくわからないことをだらだらと書き流して、読むあの人が困惑するのを百も承知で、びっちりと細かな字で埋まった紙片を、卓袱台のきっちり真ん中に残して行くのだ。

 それはすでに、用件を伝えるための書き置きなどではなくて、あの人に宛てた、私からの手紙だ。

 ああそうか、あの人が出掛けるたび、私が出掛けるたび、私たちは手紙のやり取りをしているのか。

 友人でも恋人同士でもない私たちは、毎日のように手紙を互いに書き送っているのだ。切手も封筒もない、ただ字だけが紙片に乗せられて、互いへ送られる、手紙。

 文(ふみ)、と言う言葉を思いついて、私はまたひとりで笑った。

 書いて、届けて、読んでくれる人がいることを、とても幸せだと私は思った。またあの人が、私に宛てて、書いて送って読ませてくれるのも幸せだ。

 私たちはこうして繋がっている。恋人でも友人でもない私たちは、ただ住居を同じにするというだけの間柄の私たちは、恐らく他の誰よりも親密に、文字で埋まった小さな紙片で繋がり合っている。

 私は、台所の仕切り近くに置いてある電話を振り返り、鳴る様子のないそれに、特に取り合うでもない視線を投げ、またあの人の今日の書き置きに顔を向けた。

 胸に一度抱いてから、自分の私物を収めている棚の箱のひとつを開け、そこにその紙片を滑り込ませた。

 まだほとんど空のその箱は、いつかあの人の書き置きでいっぱいになるだろうか。

 閉めた箱のふたの表面を撫で、お茶を淹れるために、私は台所へ爪先を向けた。

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 草取りに庭に出る。あちこちに生えている雑草の傍へしゃがみ込み、うつむいて、黙々と草を抜く。

 ふと気づくと、そんな私の傍らに鳥が飛び降りて来ていた。

 雀よりは大きく、鳩よりは小さい、丸い頭と短い嘴、頭から背中、そして比較的長い尾にくすんだオレンジが掛かり、色と雰囲気を地味にしたインコと言った風情の鳥だった。私が見つめていても逃げようともしない。

 鳩のように膨らんだ胸の丸さが見事で、それが鳥を尊大な態度に見せている。実際に、私の傍で堂々としている姿は、確かに尊大と言えなくもなかった。

 胸元の白さは驚くほどで、ほとんどぎらぎらしいその白さに、私は雑草を抜く手を止めて目を細める。その私に向かって、鳥は頭を軽く傾けて見せた。

 「こんにちは。」

 思わず鳥に向かって言うと、鳥は少しの間きょとんとしてから、ちょんちょんと地面と飛び跳ねて私のもっと近くへ寄って来る。そして、雑草が抜かれて嵩が減り、柔らかく掘り返された地面へ短い顔を埋めるようにして、嘴でその黒い土をつつき始めた。

 どうやら、掘り返された土の下にいる虫を狙っていたらしかった。すぐに何か小型の甲虫のようなものを見つけ、鳥はそれを食べ始める。

 捕食の場面を観察する趣味のない私は、鳥から視線を外し、また雑草抜きに心を戻す。

 「ミミズは食べないでね。土を優しくしてくれるから。」

 手元へ視線を置いたまま、私はひとり言のように鳥へ言った。

 「わかった。」

 土に汚れた顔を上げて、私を見上げて、鳥がはっきりとそう答える。私は鳥へまた顔を向け、近頃では鳥も私たちの言葉を解し、私たちの言葉を使えるのかと驚いていた。

 「わかったよ。」

 私が聞こえなかったと思ったのか、鳥がもう一度言う。意外に耳に心地良い、低い声だった。

 「ありがとう。」

 鳥にそう言って、

 「ありがとう。」 

 鳥も私にそう言った。虫の捕食を許していることに対してだろうか。私はそれきり黙って、雑草を抜き続けた。鳥はしばらくして飛び立って行った。



 私は毎日、雑草を抜きに庭に出る。長くは外へいられないので、1日に抜くのはほんのわずかだ。その私の時間をどこで見ているのか、必ずあの鳥がやって来る。

 飛び去る時にはいつも嘴と胸の白毛が土で汚れているのに、やって来る時にはまたぴかぴかになっている。鳥も毛づくろいをするのだろうが、猫や犬のように舐めると言うことができるのだろうかと、私はちらちらと、隣りの鳥を見て考える。大体嘴の辺りは自分ではきれいにできないだろうに、仲間がいるのだろうか。

 それにしても、こんな鳥は今まで見たことがない。とは言え、不精者の私は、わざわざ図書館や手元の図鑑で同じ鳥を見つけてみようともしなかった。鳥はただ、私の庭に虫を食べにやって来る鳥であり、私の雑草取りに何となく付き合う隣人のようなものだった。

 くすんだオレンジの、素敵な色だがどこか淋しいそれと違って、胸や腹の辺りの白さのぎらぎらしさは、裸眼で見る太陽光のようだ。人間の私の傍へ、怖気づきもせずに近づいて来て虫を獲るのだから、態度が大きいと言えばそう言えた。

 私はいつの間にか鳥の来ることを期待して、毎日、洗面器と小さなボールにそれぞれ水を入れ、雑草抜きをする傍へ置いておくようになった。

 鳥は時々洗面器の方で水浴びをし、小さなボールから水を飲む。気まぐれに、ふたつのことをひとつの場所でやったりもする。ボールの方は尻尾も頭もはみ出るのに、構わず水浴びをする姿は奇妙に可愛らしい。

 そして私たちは、時々おしゃべりもした。

 「おまえは空を飛べないんだな。」

 「あんまり必要はないわね。」

 「なんで草を抜くんだ。」

 「せっかく植えた花の栄養を取っちゃうから。」

 私の言うことがよくわからない時は、鳥は真っ黒なつぶらな瞳を丸く見開いて、最初の時のように首を傾げる。その姿の愛らしさと声の低さの吊り合わなさに、私はそっと微笑む。私が笑うと鳥も笑う。鳥にも表情があるのだ。

 虫を取り、腹が満ち、胃のふくらみが落ち着くと、鳥は淋しいオレンジ色の羽を広げて飛び立つ準備を始める。

 「また明日も来るの。」


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とりとめなく

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 ほとんど日記のように、あれこれ思うことを書き散らしながら、数日やる気が起こらずにエディタさえ立ち上げていない。

 こんな時もある。

 頭の中に常に言葉が渦巻いていて、外へ出せと言う声は聞こえるが、単純に外へ出す作業が億劫だとか、外へ出そうとすると理解できる文章の塊まりにならないとか、そんな時には人との会話すらうまくさばけない。

 書くも話すも単なる慣れだ。しない間に技量はどんどん落ちる。3日人と声に出して話さなければ、挨拶さえ反応が鈍る。


 書くと言うことが仕事のわけはなし、時には書こうとせずに、何もしていればいい。

 好きな音楽を、ただぼんやりと聞いて、音楽を流しながら非生産的なパズルゲームを延々とやって、あるいは特に見たいとも思っていなかった映画や過去のテレビ番組を、ただだらだらと見続ける。延々と、何もしないことをやり続ける。飽きるまで。


 実のところ、飽きるのはすぐだ。何もかも惰性で続けて、部屋が暗くなった頃に、1日を無駄にしたことに気づいて、軽く自己嫌悪に陥りもするが、まあこんな時間もたまには必要だと言い訳して、それでも何か得たものがあったろうかと自分の胸の内を覗き込む。

 あるようなないような、あったようななかったような、自分が無駄にしたこの1日は、誰かが精一杯生きたかった1日かもしれないが、何にせよ、私の時間を誰かに譲渡することは不可能だ。私が無駄にしたこの時間は、どこまでも私だけのものでしかない。


 時間と同じように、命も誰にも分け与えられない。

 必死で生きたい誰かに、死にたがりの私のこの命を差し出せたらどんなにいいかと、こう思うのは多分、それが無理だからだろう。

 命の分配が実際に可能になった時、私は今と同じような心持ちで、誰かに自分の命を差し出すだろうか。どうだろう。

 仮にこの世から1万人(数字は何でもいい)の命と引き換えに、すべての人間を含む生き物が幸せで平和で健やかな人生が歩めると保証されたら、私はその1万人に志願するだろうか。

 今、それが無理に決まっている現在、するだろうと私は思っている。だが、実際にそれが可能になって、政府なり国なり何かの組織なりが私たちに向かってそれを頼んだとして、私は手を上げて前へ進み出るだろうか。

 どうだろう。


 死ぬと言うのは案外と面倒だ。

 死ぬ時には、人は死ぬ。何をどうやっても、人は死ぬ。死なない時には、何をどうやっても死なない。

 死んでいないと言うことと生きていると言うことは、実は同義ではない。それは同質で等質のものではない。死んでないから生きているわけではない。生きてはいても、死んだも同然と言う状況は、あちこちに転がっているものだ。

 書けなくなった時、私は恐らく自分が死んだと感じるだろう。そしてその死を、もっと確実に確かなものにしたいと願うだろうが、実際に実行するかどうかは別の話だ。

 私はこんな考えを常に玩び、実際の、現実の死に直面した時の自分のみっともなさを、今から嘲笑っている。私は間違いなく、死を前にして生にしがみつくのだろうし、死にたくない生きたいと、掌を返したように喚くのだろう。


 ビルから飛び降りる度胸はない。首を掻き切る度胸もない。死体の始末が大変じゃないかと、もったいをつけて、実際にその通りだろうが、死んでしまえばそんなことは知ったことではない。

 死ぬ時には、身分証明書を身に着けておくべきだろうか。あるいは完全に身元不明の、名無しの死体で埋葬されることを願うべきだろうか。どちらがどれだけ手間が掛かるのだろう。

 死体の重さを支える場所を、天井近くに見つけなければならない。ロープの縛り方もだ。確実に死ぬのには、案外と準備と手間が掛かる。


 死に損なうと、苦しみは倍になる。現実的な苦痛に、恐ろしいほど長い間拘束されることになる。死ねれば良かったのに、死のうとしなければ良かったのに、死に損なうのは、信じ難いほどの苦痛だ。

 確実に死にたければ、色々と方法はある。本気で考えれば、果たせないことではない。

 長い間こうやって考えながら、私が一向に何も実行に移さないのは、結局のところ私の気持ちなどその程度と言う話で、とりとめなく書き出した後で、こんなところへ話が落ち着くのは、私の脳裏には常にこのことが貼りついている、と言うことでもある。

 私はどうしようもなく情けない死にたがり屋だ。死に損ないの苦痛を恐れて、死そのものではなく、生きているゆえの苦しみを死ぬほど恐れて、絶対に実行することのない死を、頭の中でだけ常に望んでいる。


 とても大切な誰かが、それができるとして、生きたいから命をくれと言ったら、私はどうするだろう。ああいいともと、すぐさまその手を取るだろうか。


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中毒

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 私は長い間、文章と言うものを書き続けている。


 本を読むのは子どもの頃から好きだった。好きだったと言うよりも、それしかすることが思い浮かばなかった。

 自分の母語の本が手元にない事態になった時には、辞書すら読んだ。電話帳があれば、きっとそれだって読んだろう。

 滅多に本を持たずには外出しない、私はその程度に、活字を読むことが好きだ。


 ごく自然に文章を書き始め、なぜこの表現方法を選んだのか、私にもよく理由がわからない。

 初めて、自分で何かを形にしたいと思った時に、それをきちんと形として外へ出したのは自作の詩集だった。それが数冊たまった後で、それなりにまとまった文章を、物語の形で書き始めた。

 以来私は、頭の中に湧き続ける(内容と質についてはあえて問わない)物語を、ひとりで綴り続けている。


 正直なところ粗製濫造としか言い様がないが、恐らく私にとっては、書いてそれをとにかくも形にして外に出すと言う行為が重要なのであって、出されたものの色や形や味と言うものは二の次なのだろう。

 どれもが似通っていようが、どれもがつまらなかろうが、どれもが面白くもなかろうが、私にとってはおおよそどうでもよいことと思われる。

 完成した形にしてみなければ、良いも悪いもわからない。つまるかつまらないか、書き上げてみなければわからない。そして完成したそれは、もう私の手を離れてしまったものだ。私ではない、私であったものだ。それを面白いつまらないと言うのは、他の人たちだ。私ではない。

 書き上げた瞬間の私にとっては、どんなものでも大傑作だ。少なくともその瞬間だけは、私は自分の所業に昂揚していられる。書き上げたのだと言う、ただその一点だけで、私にとってはどんなものも大傑作だ。

 次の瞬間には、絞りカスのようになった脳から、書いたことの記憶のほとんどが消え去り、もう次の物語を追い駆け始めている。

 私はその程度に無責任に、書き散らし、書き上げて、また書き散らし続けている。そうせずにはいられないのだ。


 私が書くものは、その瞬間の私だけが書ける、その時だけのものだ。昨日の私は思いつかず、2週間後の私には思いも寄らない、そんなものだ。一期一会、私が書くものは、どんなつまらないものもすべて、その時だけのものだ。価値はない。だがとても貴重なものだ。

 昨日の私が明後日の私より優れているわけではないし、5年前の私が今日の私より劣っているわけでもない。その時の私は今の私とは違い、違う私が書くものに優劣はない。つまるつまらないはあっても、優劣はない。


 それでも、振り返って、奇妙に充実した文章を書いていたと思われる頃には思い当たる。恐らくその時の文章の方が洗練され、鋭さもあって、今よりも情熱に溢れていたように思える。そして時には、その頃の文章で、今思うことを書き記せたらと、思う時もないではない。

 それでも私は多分、その時に戻りたいとは思わないだろう。今の私には今この瞬間の私にしか書けないことがあるだろうし、あの頃の私にはあの頃の私でなければ書けなかったものがある。ただそれだけのことだ。

 私はいつだって私でしかないが、それでも昨日の私と明日の私は、どこか微妙に違う存在であるはずだ。


 違うと言うことは、だが成熟したと言うことではなく、私は相変わらず未熟なまま、恐らくいつまでも成熟したと言う感覚など持てないまま、書き続けるだろう。

 私の頭の中に物語が溢れ続ける限り、書くと言うことに終わりはなく、私はいつまでもいつまでもこの飢えを抱え込んだまま、いつかもしかして、書き続けるその先で、この飢えが満たされるのかもしれないと思いながら書き続けるのだろう。

 ほんとうに望んでいるのは、この飢えが満たされることなどではない。飢えが満たされると、そう思うのは心の一片でだけだ。

 私は、手を動かし文字を書き記し、そして何かを表わすと言う行動それ自体に淫している。酒呑みや煙草飲みと同じだ。私は書くことに中毒し、常にその行動に飢えている。書けなくなることを、私は常に恐怖している。


 目が見えなくなること、しゃべれなくなること、耳が聞こえなくなること、指や手や腕を失くすこと、足を失くすこと、体の動きを奪われること、物が考えられなくなること、私が、そのどれをいちばん恐れているのかよくわからないが、物を書くことができなくなることは、恐らく容易に私を絶望に叩き込むだろう。

 その事態を想像することは、私を恐怖に陥れる。まだ起こらないそのことに、時々私はひとり勝手に恐怖する。

 未熟な私は、その架空の恐怖を自分の中で消化できず、こんな風に書き記して外へ垂れ流す。目に見える形にして垂れ流し、それがまだ絵空事であると安心する。

 まだそれは起こっていない。私はこうして書いているからだ。私はまだ自分の脳で考え、手指を動かして文字を書き、自分の目でそれを確かめている。


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道の上 4 (了)

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 夏の終わりは素早くやって来た。

 最後の授業が終わり、卒業式などと言う形式ばったものもなく、私たちはただ講師たちにさようならと送り出され、後は好きなように好きなだけ、別れを惜しみたい学生たちだけが、惜しみたい相手たちと一緒にロビーに長々とたむろった。

 クラスメートたちとの別れの挨拶に忙しい彼は、途中で私をつかまえて、

 「週末に会おう。電話する。」

と、奇妙に切羽詰った声と表情で言い、私にきちんとそれを約束させた。

 私のクラスメートたちはほとんどが居残り組だから、別れを惜しむのにそれほど時間は掛からず、夏の休みの間にきちんと言葉を上達させておくことを互いに誓い合って、私はいつものようにセサミ・ストリートを言い訳に、その日はひとりロビーを後にした。

 彼は火曜日に帰国することになっていた。空港へ向かうのは早朝だ。もう、明日と明後日(あさって)、それから明々後日(しあさって)しか残っていない。

 ひとり帰宅するバスの中で、私は、彼の同国人の友人からちらりと聞いた話を思い返している。ほんとうのことかどうかは知らないが、彼はいずれは同じ教会の女性と結婚するのだそうだ。今現在、その対象の女性がすでに彼を待っているのかどうかは、彼らも知らなかった。どの種類の教会なのか私にわかるはずもなかったが、様々なしがらみで、彼は教会の外の女性と結婚することはできず、彼自身もその決まり事に反抗する気はないらしかった。

 彼と神の話をしたことがあったが、もちろん私に無神論や多神教の話がきちんとできるはずもなく、教会に関係したことはないし、これからもないだろうと、そう伝えるだけが精一杯だった。

 彼が教会の話など持ち出したのはそのせいだったのかもと、今になって思い至りながら、では私が、たとえば彼の教会に属してもいいと、そう答えたなら、私たちの状況は変わるのだろうかと、埒もなく考え続ける。

 そんな風に思うほど、私は彼を好きになってしまっていたし、それでいて彼との別れの現実が身には迫って来ず、まだ何とかなるのではないかと、夢のようなことを考えていた。

 もう少し子どもの頃に思い描いていたのは、好きだと気持ちが伝わり合えば、そこで何もかもがうまく行くと、そんな風な物語だった。そこから先はない。好き合っていれば、反対も障害もなく、そのままふたりはただ幸せになれるのだと、この頃まで私は心のどこかで無邪気に信じていた。

 実際には、山ほどの懸念があり、心配事があり、ハードルがあり、そもそも好きの度合いとベクトルが違えば、何も起こらないことも有り得るのだと、私はこの時生まれて初めて悟っていた。

 乗客の少ないバスの中で、いちばん後ろの席に坐り、そして、誰もこちらを見ていないことを確かめてから、私は少しの間涙を流した。声は立てず、涙だけが流れる、それを指先で何度か拭う、そんな泣き方をした。

 窓の外では、とっくに夏休みの子どもたちが、自転車を乗り回して甲高い声を上げて遊んでいる。彼らを見て、私はもう一度涙を流した。



 帰国の準備で忙しいはずの彼は、その合間にか何度か私に電話をくれ、別れの挨拶など何もせずに、私たちはいつもと同じような会話を繰り返す。

 そして月曜日、午後いちばんで遊びにおいでと言われ、早目の昼食をひとり先に済ませ、私は彼の家へ行った。

 「荷物はもう片付けたの。」

 「部屋はもう空だよ。一緒に帰るヤツがいるから、ルームメイトが空港まで送ってくれるんだ。」

 「そう、よかった。」

 明日の今頃は、彼はもう飛行機の中だ。そして私は、二度と彼に会うことはない。そのことには触れず、私たちはまたセサミ・ストリートの話をし、彼の国の話を聞き、それから学校の話をした。

 「アイスクリームは好き?」

 彼が突然訊く。

 「嫌いじゃない。」

 「じゃあ、後で食べに行こう。」

 彼の説明によれば、今までいちばん先まで行った、河の向こう岸をさらに北西に進むと、ぽつんとアイスクリーム屋があるそうだ。箱入りなら街中のコンビニエンスストアでも買えるが、ソフトクリームや普通のアイスクリームは、そこへ直接行かないと食べられないと説明して、

 「一緒に行こう。」

 私を誘うその言葉が、それだけではない響きを確かに帯びていたから、私はできるだけ軽くうなずいて、普段と変わらない態度を続けた。

 彼の家を出て、いつものように河沿いの遊歩道へたどり着き、それから橋を見つけて向こう岸へ渡った。天気の良い日だった。

 畑の間の道を、彼が先に歩き、私がその後を追う。私は彼の靴のかかとへ視線を落として、それが上げる小さな砂煙に時々目を細めて、何も言わずにそうして歩き続ける。


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朗読

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 私はその時、14歳だった。詰襟を着て、ひょろりと背が高い以外は目立つところもない、成績も中の下の、ただの中学生だった。

 教室の前から2列目、ほとんど教壇の真正面に坐る私の後ろに、彼女は坐っていた。

 彼女は、授業の合間も昼休みも放課後も、暇さえあればいつも本を読んでいて、特定の誰かと親しいと言うこともなく、だが私も含めて話し掛ける誰にもへだてなく答えを返し、やたらと男子に攻撃的な女子や、すでに大人びて、まだそこまでは心の伸び切っていない我々に、すでにどきりとする視線を投げ掛けて来る女子の、そのどちらにも属さず、私から見る彼女は、どこか我々とは違う世界にいるように、常に物静かでぴしりと伸びた背中が印象的な女子だった。

 私たち──僕たちのその頃の担任は30歳くらいの独身の国語教師で、女子にはそこそこ人気があったが、男子には割りと嫌われていて、無口と言うよりは陰気な雰囲気と物言いのせいで、僕らは担任にコウモリと言うあだ名をひそかに献上していた。

 そのコウモリが、なぜか彼女を、クラス全員にはっきりと分かるほど、そしてクラスのほとんどが眉をひそめるほど、理不尽にいじめていた。

 僕の班のある女子は、彼女と体育でグループを組んで課題を一緒にやった縁で彼女と比較的仲が良かったのだが、ある日コウモリに、

 「あいつと付き合ってるとロクなことにならんぞ。」

と言われたと、僕たちに向かってぷりぷり怒っていた。

 他の時には、彼女が掃除中にうっかり階段から数段落ち、利き腕の手首をひどくひねったためにがっちりテーピングされ、数週間、鉛筆すら持てなかったのに、彼女にだけ教科書を書き写す宿題を特別に出すと言うことをやった。

 利き腕が使えない間、彼女は何とかもう片方の手で鉛筆を持ってノートを取っていたのだが、もちろん追いつけず、他の女子たちが彼女にノートを回し、怪我が治る間彼女を助けていた。僕ももちろん、求められれば彼女を助けた。

 コウモリはそれをつぶさに見ていながら、せせら笑うような表情を浮かべて、

 「階段から落ちて怪我をするような人間はもっと気を引き締めるべきだ。」

とか何とか、よくわからない理屈を言ってその宿題を言い渡し、彼女の斜め後ろに坐っていた副学級委員の女子が、さすがに顔をしかめて、

 「でも先生、鉛筆も持てないケガなのに。もっと別のことをさせればいいじゃないですか。」

 精一杯嫌悪を示して抗議したが、コウモリは考えを変えず、この1件は僕らが思うよりも早く──女子の情報伝達力を舐めてはいけない──他のクラスにも伝わり、それなりにあった女子人気を、コウモリは僕らの担任だった1年の間にすっかり地に落としてしまった。

 彼女はコウモリにはひと言も言い返さず、1週間ほど遅れて──もちろんコウモリは、その遅れを毎日みんなの前で叱った──その宿題を提出したが、点数も何もなく返却された挙句に、ノートのページの最初に、"字が汚いヤツはロクな人間にならない"と赤字で書かれたあったのを、僕はちらりと盗み見た。

 僕はそれで、コウモリのことが大嫌いになった。

 ある日の授業で、僕らは教科書に載っていた詩の朗読をやらされた。

 漢字の苦手な僕は朗読と言うヤツが大嫌いで、読み違えに精一杯気をつけて、途中でつっかえないように心臓をドキドキさせながらただ祈って、30行ばかりのその詩を、30秒で読み終わった。

 コウモリは、僕の駆け足の朗読を笑ったが、少なくとも笑い方はそれなりに好意的だった。

 そして、僕の後ろに坐る彼女の番になった。彼女はそっと立ち上がり、両手に、習った通りに教科書を乗せ、そして、大きく息を吸い込んだ音が、僕の背中にはっきりと聞こえた。

 最初の一語を彼女が発した時、教室の音が失せた。色も失せた。

 授業の間に私語がないのは当然だが、その時は、単に誰もが無言だったと言うだけではなく、教室からまるごとすべて音が抜かれたように、僕らの周りには音がなかった。聞こえるのは、静かに詩を読む彼女の声だけだった。

 彼女の読むその詩は、今まで僕も含めて他の同級生たちが読んだそれと同じとはまるで思えず、彼女が言葉の間に置く間と、時々彼女が息継ぎでそっと空気を揺する気配と、何もかもを含めて、僕らのいる教室と言う空間そのものが、その詩そのものになった。

 僕らは息を詰めて彼女の声に聞き入り、彼女が発音する言葉が、耳を通り越して脳へ直に染み込んでゆく感覚にゆっくりと瞬きをし、そっと盗み見ると、コウモリすら、呆然と彼女を見ていた。

 教室は、真っ白だった。壁は古びて少し黄味がかり、詩の中に表わされている無個性な清潔さを表わして、彼女の声と言葉だけが、そこをゆっくりと満たしてゆく。

 30行ばかりの詩を、彼女は恐ろしいほどの臨場感を込めて読み上げる。僕らはみんな、その詩の世界の中に引きずり込まれていた。この世界を、不粋な音や呼吸や気配で壊すことを、死ぬほど恐れていた。

 14歳だった僕は、その時まで、こんなに心の中も頭の中も真空になるほど何かに引きつけられた経験がなく、突然別世界へ放り込まれたようなこの彼女の詩の朗読は、心臓が止まるほどショックだった。

 彼女が最後の行を読み終わり、そこでひとつ息を継いだ。それが終わりの合図だった。僕らは一斉に詰めていた息を吐き出し、そして一斉に彼女を見た。僕は思わず振り向いて、彼女を見た。

 彼女は、皆の視線には気づかない風に静かに椅子を引き、そっと腰を下ろす。彼女の頭の高さが皆と揃った途端、僕らは完全に現実に引き戻されていた。

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道の上 3

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 それから、彼は私がロビーのベンチに坐っていれば必ず隣りへやって来るようになり、プールで行き会えば、何となくそのまま一緒に外で落ち合って同じバスでターミナルへ行くと言うことが増えた。

 彼は私がそれをどう思っていると尋ねることはせず、断る理由も思い当たらなかった──あったところで説明もできない──私は、何となくそれを受け入れて、学校のない週末も、彼からの電話で一緒に外へ出ると言うことまで起こり始めた。

 何もかも、私が拒まなかったからだが、恐ろしいほど自然に彼は私の隣りにやって来て、私を外へ連れ出し、私の読む本を眺めて面白がりながら、私が読めそうな本を、さり気なく誘ってくれた街の図書館で一緒に探してくれるということまでやった。

 私は彼の話し方と言葉遣いを浴びるように聞き、耳から学んだその発音で、その頃一緒に住んでいたイギリス移民の家族に、

 「どうして君にはスペイン語訛りがあるんだろう。」

と訝しがられるほどだった。

 彼のおかげで私の言葉は上達しつつあったが、家族から得たイギリス訛りと、彼から移されたスペイン語訛りがごちゃごちゃと混ざり、もちろん私自身にはその自覚などなく、発音の奇妙さを指摘されたところで、わざわざ直すような余裕もなかった。

 セサミ・ストリートは、週末には朝から夕方まであちこちの局で繰り返し放送されていたから、彼の滞在先へ招かれて、彼のルームメイトたちと一緒に笑い転げながらモンスターたちを眺めて土曜の午後を過ごすと言うことも多々あった。

 そしてそんな時、彼は夕方少し日が翳って涼しくなると、よく長い散歩に私を連れ出した。

 彼の家は街の東側にあり、そこをもっと先へゆくと、湖から流れ出た長い河にぶつかる。その河は街々をずっと縦断し、いずれは別の湖へたどり着く。私は彼に教えられて初めてこの街にそんな河があることを知り、彼と一緒に、河に沿って作られた遊歩道を、彼は私に合わせて少しゆっくりと、私は彼に合わせて少し早足に、北へ向かってずっと歩き続けるのだ。

 すれ違う人たちは、明らかにいろんな血の交じり合った彼の、ひょろりと背高い姿にまず目を止め、それからその隣りにいる小柄な東洋人の私を見て、必ず少しばかり驚いた表情を浮かべたが、彼の隣りを歩くのに必死な私は、彼らの視線には滅多と気がつかず、彼らとすれ違った後で彼に、

 「はは、また変な顔された。」

と可笑しそうに言われて、初めて彼らを振り返って眺めるのが常だった。

 広い河にはよく船が通り、何ヶ所かに渡された橋は、そのたび真ん中で割れ宙に跳ね上がり、船を先へゆかせるために車の通りを止める。そんなものも生まれて初めて見る私はすべてが物珍しく、これもまた、彼があれこれ説明してくれるのに、ただ耳を傾けた。

 時々、その橋のひとつを歩いて横切り、河の反対側の岸へゆく。そこから少し西へ進むと、ひたすら畑ばかりが広がる辺りへ出る。家も人も車もまばらで、夜来たら、さぞかし淋しいだろうと思える場所だった。

 「夜になったら星がきれいなんだ。」

 今はまだ青い空を指差して、彼が言う。見渡しても街灯も滅多と見当たらないそんな場所で、街の灯のない暮らしなどしたこともない私には、何だか不安しか湧かず、それでも、ひとりきりでないなら、いつか夜空を見上げてみたいとも思った。

 ここには腰掛けの学生の私たちは、もちろん車など持たず、移動はすべて徒歩かバスの私たちは、暗くなってから会ったことはなく、今思い返せばそれは、もしかしたら彼も、私と一緒に夜空を見たいと、そう言ったつもりだったのかもしれない。そうすることは、無理ではなかったけれど、その時の私たちには少しばかり難しかった。



 一度だけ、彼と一緒に映画を見に行ったことがある。夕食の後に、ターミナルで落ち合って、街でいちばん大きな映画館へ一緒に行った。悪くはない映画だった。もちろん、台詞の大半が私にはきちんと聞き取れず、見終わった後で彼に説明してもらう必要があったが。

 夜には数の減るバスを待つ間に、私たちはコーヒーショップへ腰を落ち着け、相変わらず他愛もないことを話して時間を潰した。

 「夏が終わったら、自分の国に帰るんだ。」

 彼が言う。いつものように微笑んでいたけれど、そう言った後で、奥歯を噛みしめた頬の線が、はっきりと見えた。

 私たちは、小さな丸いテーブルに、高さの違う肩をわざわざ寄せ合うようにして坐り、彼のその頬の線を眺めて、私は自分の家族のことを突然思い出していた。今彼を眺めている角度が、ちょうど自分の家の食卓で、父親を眺める角度と同じだったからだ。私の父もよく何か内心に屈託がある時は、こんな風に奥歯を噛みしめた横顔を私に向けた。

 女性はそう言えば、こんな風な顔を見せないと、よそ事を考えながら、私は彼のその頬の線を見つめ続けていた。

 「もう、飛行機は決めたの?」

 「まだ。」

 短く答えて、彼は自分のコーヒーの紙コップへ視線を落とした。

 私はすでに、彼の帰国のことを、彼と同国人のクラスメートから聞いて知っていたから、大きなショックは別になかった。夏が終わって帰国するのは彼だけではなく、恐らくもう半年はここへいるだろう私を初め、居残り組の学生たちは、去った学生たちと入れ替わりにやって来る新しい学生たちを秋に迎えることになる。


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道の上 2

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 「君が訊いたことは嘘じゃないけど、僕らにも言い分はあるんだ。」

 目を細め、彼を見上げて、私は彼の言葉に必死で集中した。授業中だって、こんなに一生懸命誰かの言葉に耳を傾けることはない。

 「あの子たちは、盗みをするし人を傷つけもする。人殺しも厭わない。靴片方のために、あの子たちは人を殺すんだ。」

 映画や音楽でしか聞いたことのない、殺すと言う言葉を耳にして、私は少しだけ頬を打たれたようにうろたえる。殺すと言う言葉は、どの言葉でも聞いても、こんな風に禍々しく響くのだろうか。

 彼は、少なくとも私がきちんと話を聞いていると思ったのか、相槌すら打たないのに、そのまま話を続ける。

 「僕の友達も、ああいう子たちに殺された。僕のいとこもだ。政府は、そういうことを未然に防ごうともしてるんだ。」

 私は、彼の言うことを正確に聞き取っているかどうか不安になりながら、思ったことを、数の足りない単語数で必死に表わそうと努力する。収容所、と言う言葉が分からず、代わりの言葉を探して、結局訳の分からない言い方をした。

 「集めるとかは? 家とか。」

 「学校とか孤児院みたいに? そんなところに入れたって、彼らはすぐ脱走するし、彼らはそもそもそんなところに入れられたいなんて思ってやしない。」

 彼の言い分は、半分くらいは一方的なように思えた。それでも恐らく、彼に言わせれば、私がテレビで見た放送のされ方も極めて一方的な意見なのだろう。正しいことはひとつではないのだと思いながら、私はそう思うことすらきちんと表現できないことにひとりで焦れ、彼の話を一方的に聞くしか術のない、自分のあらゆる拙さを歯痒く感じている。

 彼の言うようなことを、私はほとんど見聞きしたことがなかった。浮浪児たちは盗みをしたり人を殺したりする、収容するのも無駄、他に手立てがないので彼らを殺すことにする、そんな恐ろしい話が一体どこに転がっているのかと、私は海を越えた遠い、名前さえ彼らの言葉でそのまま発音できるか怪しいある国の出来事に、完全な他人事として憤る。安全な場所で、家族や友人を殺される恐れもなく、その浮浪児たちに対面する機会すらないまま、彼らの悲しい運命を嘆く。単なる自己満足だ。

 彼はそうではない。その子たちに日々直に会い、彼らが何をしているのかを知っている。彼らが、ただ可哀想なだけ──見方によっては、もちろん彼らはただ気の毒な存在だ──の憐れな孤児たちではないと知っている。残念ながら、彼自身が被害者であり、その立場から、加害者である浮浪児たちが"駆除"──これは、テレビが使っていた言葉だ──されることを黙認するのも仕方がないと思っている。

 私はただ彼の話を黙って聞くしかなく、それは私の言葉の未熟さだけのせいではなく、ほとんど生まれて初めて、自分の振りかざす正義が絶対ではないと思い知らされ、そして正義の形も存在も、ただひとつと言うわけではないのだと、目の前に突きつけられたからだった。

 私は、自分の幼稚さを恥じた。できれば、この場で彼の前から消えてしまいたいと思った。

 「わかった。あなたの言うことは、わかった。」

 私は心の底から素直にそう言い、だが謝罪の言葉のようなものは付け加えなかった。私の見聞きしたことは少なくとも完全に間違いではなかったからだ。見解の相違と言う代物を、口にする前に考えなかった私は愚かだったが、私が悪かったと自分のことを思ったのは、彼の気分を知らずに害してしまったというただその一点だけだった。

 「起こってることが正しいとは思わない。でも、困ってる人たちがいるのはわかった。」

 「・・・僕らだって、あの子たちが殺されるのを正しいと思ってるわけじゃない。」

 でも他に手立てがない、と彼が言葉を切った後に、私にはそう聞き取れた。主には言葉の問題で、私はそれ以上彼に問うことをしなかった。

 私たちは、ごく自然にそのままバスの乗り場まで一緒に行き、一緒にバスに乗り、横に長い座席に肩を並べて坐り、バスの走る音に負けない声を上げて、ほとんどは彼が一方的に学校のことを話すのを聞いていた。

 学生たちはほとんどが街の中心でバスを乗り換えるので、私たちも同じ様にターミナルでバスを降りたのに、すぐ次のバスに乗れる彼は、15分待たなければならない私の傍を離れず、結局私たちはその後2本のバスを乗り過ごし、ベンチでずっと話をした。

 彼は熱っぽく自分の国のことを語り、いろんなことを変えて行かなければならないと、繰り返し言う。

 暴動が繰り返され、そのたび政府は軍を出動させ、街中に──彼は首都に住んでいるそうだ──戦闘機が飛び交う。彼が両親と暮らす背の高いアパートメントの、最上階に近い窓から、その戦闘機がよく見えると、彼がほとんど可笑しそうに言った時、私は、ここへ来る以前の自分の暮らしのことを考えた。

 軍の基地の近くに住んでいたから、学校へ通う──私は学生だった──電車の窓から、展示されている飛行機を見たことはある。母は基地のある街で仕事をしていた時期もあった。明らかに外国人の多いその街は、彼らに合わせた生活用品や文房具が多く売られ、それを珍しがって母があれこれ買って帰って私に見せる。私は軍や戦争を、特に理由なくありがちに忌み嫌っていたし、それに参加するすべての国や政府を、ただ愚かだと内心で常に一刀両断していた。

 「僕は、ここでは好きに話ができるけど、国に戻ると手紙すら自由には受け取れなくなるんだ。僕や僕の家族が受け取る前に、全部開封されて中身をチェックされるから。」

 なぜ、と私が訊く。国の方針なの?

 「そうだね、方針でもある。僕の母さんは元々ロシアの人間だし、父さんはドイツ移民と山岳系原住民の混血なんだ。そのせいで色々あって、うるさいことを言われる。」

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ある女(ひと)

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 後2週間くらいですって。彼女が、微笑んでいるような悲しんでいるような淋しがっているような、そのすべてともどれかとも言える、複雑な表情で私に告げる。

 え、何? 何の話ですか? 半分くらいはうろたえて、私は聞き返す。

 お医者さまがね、後2週間くらいだろうって。私、死ぬのよ、後2週間くらいで。2週間と繰り返しながら、彼女は微笑んでいるように見えた。

 黄疸のひどい黄色い顔色で、90に手の届く彼女が言う。そろそろ死ぬのだと、私に告げる。88の誕生日をつい数ヶ月前に迎えた彼女が、ひ孫にすでに子どもがいて、彼女の娘がその子たちの子守をしている彼女が、私にそう言う。


 私は赤の他人だ。言葉も違う、生まれた国も違う、世代もまったく違う、偶然彼女に出会い、少しばかり彼女の世話をする(ただ彼女をひとりにしないように見守っているだけだ)ことになった、ただそれだけの私だった。

 彼女は、たまに私が作る食事にまったく文句ひとつ言わず、必ずありがとうと最初と最後に言い、私が淹れるコーヒーか紅茶を、これもありがとうと言って飲んでくれる。

 彼女の、くしゃくしゃに丸めてから広げた紙のようにしわばんだ手を、私は時々自分の手に取る。ひたすらに柔らかな彼女の手を握り、彼女の1/4程度しか生きていない、まだ幼い自分(失笑ものだが)の、いつでもあたたかい手の中に、彼女のいつも冷たい手を挟み込む。


 彼女は同性愛者が大嫌いだった。そのことを彼女が口にするたび、ひそかに同性愛者である私は、ただ微笑だけを返し、彼女の気持ちを変えようなどと大それたことは一度も考えたことがない。

 彼女の末の息子は、他の家族とそりが合わず、ある日突然姿を消した後で、はるか彼方のある都市で、死亡が大きく新聞の一面に載る程度には知名度を得て、エイズで亡くなった同性愛者として、遺影となって再び彼女の前へ姿を現した。

 彼女のいちばん上のひ孫の夫は、ふたりの子どもを得た後で、もう嘘はつけないと、ある日突然同性愛者であることを皆に告げて、ふたりは結局離婚することになった。元夫の彼は、今は恋人と一緒に暮らしている。

 彼女は、同性愛者が大嫌いだった。


 私は彼女がとても好きだった。物静かで、学校へは行ったことがないと言うのに、彼女の語彙の多さと読書量に私は舌を巻き、勤労を美徳とするのは私も同じだったから、私たちは違いを脇に置いて何となく気が合い、恐らく私が彼女を好きな分だけ、彼女も私を好きでいてくれたと思う。

 同性愛者の私は、同性愛者が大嫌いだった彼女を、とても好きだった。

 同性愛者が大嫌いだった彼女は、同性愛者ではあるがそれを隠していた私を、とても好いてくれていた。


 彼女を蝕んでいたのは、奥深い内臓の病気だった。

 私が知るところでは、医者は患者にほんとうのことは言わない。けれど彼女のいるところでは、医者は患者にほんとうのことをはっきりと言い、そしてこれから死ぬのだと告げられた彼女本人から、私たちはそれを告げられるのだ。

 私は彼女の手を取った。

 なぜ、あなたがそれを私に言うの? 死んで行くのだと言うことを、なぜ当人のあなたが、私に言うの?

 どんな表情をしていいのかわからず、私はすでに泣いていた。2週間、14日、その間に、彼女が死んでしまうのだと、そう告げられて、私は彼女の前で泣いていた。


 彼女は思いやりの深い、とても優しい人だった。自分には厳しく、他人にはあたたかく、聡明で生真面目で、けれどいつだってユーモアを忘れない、素敵な人だった。

 コーヒーの大好きな彼女は、私といる時は私に付き合って紅茶を飲み、私は時々彼女に合わせてコーヒーを飲んだ。

 病院の薄いコーヒーが彼女の口に合うわけもなく、私は彼女に会いに行くたび、コーヒーを買って彼女に届けた。

 こんなこと、してくれなくてもいいのに。

 言いながら、それでもあっと言う間にコーヒーを飲み干して、そして彼女が飲めるコーヒーの量が、少しずつ少しずつ減って行くのに、私は悲しみながら気づいていた。


 意識がほとんどなくなった頃、彼女は自宅へ戻り、家族に囲まれて最後の時を迎えようとしていた。

 私は彼女の傍にいることを許され、それができる時は必ず彼女の手を握り、彼女に話し掛け続けた。

 医者と看護婦が、日に1度か2度、様子を見にやって来る。彼女の体をきれいにし、薬を与え、こちらから様子を聞き、そして、淋しそうな微笑みを浮かべて、ではまた明日と帰ってゆく。


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独善

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 私はまた、ひとりよがりの恋をしている。

 私の恋は常にほとんど妄想に近く、ろくに知りもしない相手に盲目的で愚かな想いを寄せて、そしてもちろん実る予感など最後までひとかけらも湧かないまま、何もかも一方的に終わる。

 私はまた、そんな間抜けな恋をしている。


 真摯な様に惚れる。一途で真剣な、そんな横顔を見てしまえばおしまいだ。そして合間に、私にと言うわけでもない笑顔でも見せられたら、誤解はいっそう加速する。

 あの人が、私にあんな笑顔を向けるはずがないとわかっているのに、視界の端に引っ掛かったそれを忘れられずに、何日も何日も、何度も何度も、私はその笑顔を反芻する。

 もしかして、はない。あの人は私に笑い掛けたりなんかしない。

 一方通行の愚かな恋は、こうしていっそう愚かさを増す。


 あの人の情熱の行く先へ、私も目を向ける。あの人の、熱のこもった視線。きらきらと、この上なく愉しそうに幸せそうに、あの人が生き生きと目を輝かせるのを眺める。あの目に恋をしない人間がいたら、きっと石か木だ。

 私はあの人の、輝く目に恋をして、その視線が真摯に注がれる方向へ恋をして、そして私はあの人に恋している。

 あの人が見つめるそのものと、そのものを見つめるあの人と、何もかも、何がどこまで何なのかわからないすべての入り混じったあの人の在る混沌に、私は深く恋している。


 私の目の前で、私がこうと思い描くあの人は、そしてゆっくりと形を崩してゆく。

 私の想うあの人は、真実のあの人ではなく、私の中に在るあの人は、何割かは私の勝手な思い込みの想像の像だ。真実のあの人を少しずつ知るたびに、私は1秒前よりももっと深くあの人に恋し、そして同時に、勝手な失望も味わう。私が想うあの人と、ほんとうのあの人の姿がぴったり重ならないのは、まったくあの人のせいではないのに。

 あの人が、あの真摯さを失いつつあるからと言って、それはあの人のせいではないのに。


 私は、真摯さに恋をする。真剣な情熱に魅かれ、その情熱のあふれる瞳に魅せられる。

 恋は突然気安く始まるが、気軽には終わらない。恋の最初の真摯さを憶えていれば、それを忘れることなどできないからだ。

 あの人の声、言葉、視線、情熱、少しずつ積み重なってゆく恋のかけらを、それはそれは大事に抱えて、そのひとつびとつを惜しんで、私は身動きできなくなる。

 私は恋をしている。愚かで苦しいだけの間抜けな恋だ。報われる予感などなく、最後は大抵、汚物を見るような視線を浴びて、私は向こう側の終わりを知ることになる。


 こちらから必死に伸ばしてあの人に結びつけた糸を、向こうから切られたからと言って、私の方もとほどくことはできず、どこにも繋がっていない糸の、向こう側の端を眺めて、私はため息をつく。

 あの、私が恋した真摯さはどこへ消えてしまったのだろう。最初から存在もしなかったのか。あるいは姿を変えて、それはもう私にとっては真摯ではなくなってしまったのか。それとも、私の視線すら汚らわしいと、どこかへ隠されてしまったものか。


 あの人は相変わらずあそこにいて、愉しそうに笑っている。それを見て、相変わらず幸せを感じながら、けれど私はそこにあの真摯さの存在を感じられずに、ひとり胸の内でだけ嘆いている。

 私の勝手だ。あの人の知ったことではない。

 端が地面にだらりとこぼれた糸の先の、こちら側を掌に乗せて、私はそれを眺めながら、あの人の真摯さを恋しがっている。私が恋したあの人の真摯さを、すでに懐かしがっている。

 私のひとりよがりの恋だ。どこへも行かず、どこへたどり着くこともない、私の自分勝手な恋だ。勝手に始まり、知らずに終わる。今度の恋が終わるのは、一体いつだろう。


 私はあの人が、コーヒーをブラックで飲むのかどうかすら知らない。多分これからも、ずっと知らないままだろう。

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道の上 1

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 私たちは、葡萄畑の間を歩いていた。

 それ以外は青い空しかない真っ直ぐな、歩道などない道を、時々通る車を気にしながら、私は彼の背中を見つめ、彼は振り返って私がそこにいるか気にしながら、私たちは、夏の日、そうして一緒に歩いていた。



 私が初めてまともに彼を見たのは、大学のジムのプールでだった。

 学生証を見せてタオルを受け取る受付でたまたま一緒になり、彼は男子用更衣室へ、私は女子用更衣室へ、右と左に別れ、着替えは女性の方が時間が掛かるものだから、私がプールサイドへ出た時には彼はすでに一番右端のレーンで泳ぎ始めていて、私は一番左端のレーンへ静かに入り、他のことなど目も入れずにすぐに泳ぎ始めた。

 私たちはふたりとも眼鏡を掛けていて、だから私がひと息ついた時に、上から私に声を掛けて来たのが彼だとは、すぐには気づかなかった。

 私は彼の顔がよく見えず、おまけに眼鏡のない顔をそもそも想像したこともなく、

 「よく泳ぎに来るの?」

 彼が、私と同じ英語修得のコースにいる学生で、母国語がスペイン語で、次はもう大学へ入学の許可されるいちばん最後のレベルのクラスでも上の方らしいと、私の彼に対する知識はその程度だった。

 「毎日、2回。」

 彼に通じるかどうか心配しながら、いちばん下のクラスにいる私は、彼へ向かって声を軽く張り上げた。

 「ここでは初めて会うね。」

 彼が微笑む。眼鏡のない彼の表情は、眼鏡のない私の目にはぼんやりとしか見えず、それでも笑顔が案外可愛らしい人だと、その時私は思った。

 じゃあ、と彼が手を軽く上げて去ってゆく。儀礼的に私もそれに手を振り返し、私はまた水の中へ戻ってゆく。

 ただ、それだけのことだった。



 大学構内に入ると、図書館への入り口がある。一応の受付──人がいるのを見たことがない──が右の方にあり、その正面にはベンチやソファが並んで、学生たちはバスを待つ間、たいていそこへたむろっている。

 壁際の、構内への入り口へ背を向ける位置の真四角のベンチが、私のお気に入りだった。

 私は帰宅前のバス待ちの時間をよくここで過ごし、授業の合間に暇があれば、まず間違いなくここで本を読んでいる。読むのはもちろん私の母国語の本だ。あるいは、表紙を隠したこの国の子ども用の絵本だ。

 プールに行くのは昼休みと放課後。1日2回。突然変わった環境で体を壊すことを恐れて、体力作りのためと言うことがひとつ、もうひとつは、学生ならただで使えると言うジムの温水プールが案外と豪華で、中学以来水泳から遠ざかっていた海の傍育ちの私は、川すら見かけないこの街で、単純に水の眺めに飢えていたのだ。

 ろくにこの国の言葉も使えない私は、授業についてゆくのが精一杯で、言葉の違う友達を作ると言う余裕などなかったから、そうやってひとりの時間を過ごすことがほとんどだった。

 同国人の学生とは、

 「黒人の人って彼氏としてどう思う?」

だの、

 「本って、教科書しか読んだことないから。」

とか、

 「日本人がバナナってどういう意味?」

と台湾人の学生に真顔で訊いて絶句されると言う風に、一体何を話せばいいのか見当もつかないまま、こちらが戸惑う間に向こうから相手にされなくなると言う状態だった。

 私はひとりには慣れていたし、うまく人と付き合えないことにもさして危機感はなく、学生たちにロビーと呼ばれていたその構内の受付前の場所で、周囲の会話で耳が拾った単語を辞書で引く、と言うことを合間にやりながら、いつもひとりで本を読んでいる変わり者として通っていた。



 「これ、君が書いたんだよね。」

 プールで聞いた声が、また上から降って来る。広いベンチの上に、靴を脱いで素足であぐらをかいていた私は、眉を寄せて声のする方へ顔を上げ、読書の邪魔をされた不快感を隠しもしない。


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嘘つき

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 君とかあなたとか誰それでなく、私と言う一人称で文章を書くと言うことは、書いたことすべてを肩に背負うことなのだと、私と言う一人称で文章を書き始めてから初めて悟った。

 私は、と言う書き出しで書かれた文章は、読まれる時に、「これは"私"と言うこの実在する人物の考えること思うこと見ること経験したことすべてのはずだ」と前提されるのだと言うことに、私はこんな風に文章を書き始めるまで気づかなかった。


 少なくとも私は、自分自身は自分の書く文章とはかけ離れていて、真実などひとつもないと真顔で言うことができる。私は下手くそな嘘つきで、下手な嘘を並べ立てて、例えば自分のこととは真逆を描写して外の世界を煙に巻いていると思い込める程度には愚かで、思うままをここに綴りながら、文章の最後に一体何を言うつもりだったのか覚えてすらいないお粗末さなど日常茶飯事だ。


 私が例えば男女の恋を書いたからと言って、異性と恋愛中だとは限らないし、女性同士の片思いを書いたからと言って、私が同性愛者だとは限らない。私が死に掛けたことのある入院患者を描写したからと言って、私自身が事故にあった当人だとは限らない。もしかすると私が、その誰かを死に導きかけた加害者の方かもしれない。

 私が書くことは私自身ではなく、そもそも私は、いつもは「私」ですらない。「私」と名乗る私は、こんな風な文章を綴る時に私が使う人格で、普段の私とはまったく違う人物だ。

 「私」を自称する私は、実のところ、「私」とは名乗らない私自身を非常に混乱させる。普段の人称で世界を見ている私と、「私」と言う人称で世界を見ている私は、どこかでずれて存在している。「私」が見る世界と、「私」でない私が見る世界は、まったくの別物だ。


 こうやって「私」として文章を綴り始めて、少しずつ「私」と「私」ではない私の間の溝は狭まりつつある。深さは変わらないように思えるが、少なくとも今では、ひと飛びで飛び越えられる程度の幅になったような気がする。

 ごく自然に「私」と頭の中で自称する機会が増え、「私」として世界を見ている時間を自覚するようになり、「私」の見ている風景に、「私」ではない私ももはや慣れつつある。

 私は、この「私」の存在への戸惑いを減らして、互いに歩み寄ったのかどうか、ほとんど触れられるくらいの距離に近づいて、だが顔を見合わせることはしない。目を合わせることはしない。「私」は「私」の見たいものを見て、「私」ではない私は自分眺めたいものを眺めるだけだ。


 何の自覚もなく、ただそうしたい、そうしてみたいと言う欲求だけで私と言う一人称で文章を綴り始めた「私」は、それについては何の覚悟もなく、書き始めて初めて、「私」と言う一人称の意味深さに気づいた。

 私は、「私」と言う一人称で書かれた文章に責任を持たなければならない。「これは私と言う人間についてのほんとうのことが書かれているはずだ」と言う暗黙の了解を引き受けなければならない。

 それに対して私は、「自分は嘘つきだ」と言う返事を返すことにした。

 「私」と名乗る私は私ではない。だから、「私」と名乗って書く私の文章は、何もかも徹頭徹尾嘘ばかりだ。下手であろうとなかろうと、「私」は大嘘つきだ。


 こうして私は、「私」が書いたものに対する責任を放棄して、好き勝手な放言を続けることにする。私は、「私」が見たものや感じたことを、あるいはそうと思われることを、好き勝手に「私」として書き綴る。私は「私」ではないから、それがほんとうのことかどうかはわからない。

 「私」の言うことには、真実は何ひとつない。少なくとも私にとって、「私」の書き綴ることはすべて嘘だ。

 無責任で嘘つきで人でなしの「私」は、頭蓋骨の中や体の中にたまった膿を吐き出すために、嘘八百を並べ立てる。「私」にとっては書くことは呼吸と同様であり、書くことが嘘なら、「私」はつまり、「息をするように嘘をついている」ことになる。

 「私」とはそういう人物だ。「私」は無責任の被膜の陰から、あれこれのことを書き綴って、外の世界へ流し出す。「私」の手から離れてしまったそれらは、元は「私」の一部であったが、離れてしまった後はまったくの別物だ。それは、「元私だったもの」でしかない。

 「私」は嘘つきだ。「私」の言うことなど、何ひとつ信じられない。


 「私」は考える。人の笑顔など信じられない。世界は欺瞞に満ちていて、生きることに価などしない。誰も彼も醜悪で、その心のうちを思い遣る必要などこれっぽっちもない。世界は一瞬でも早く滅びるべきだ。そして月曜日は、誰にとっても素晴らしい日に違いない。

 あなたの月曜日はきっと、どうしようもなく気の滅入る、憂鬱なだけの日だろうが、そうに決まっているしそうであればいいと、「私」は考えている。


 そして私は、どうか良い1日を、と声に出して言った。

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隔たり

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 あなたは今何をしているだろうか。

 日曜の午後、冷蔵庫を開けて冷たい飲み物を探しているかも知れず、外へ出て買い物でもしているかも知れず、あるいは、誰か親しい人と会う約束に出掛ける途中だろうか。


 あなたは今どこにいるのだろうか。

 自宅の自室か。近所のコンビニか。あるいはバスが電車に乗って、流れる街の眺めをぼんやり目に映しているところだろうか。


 あなたは今何を見ているだろうか。

 テレビか。コンピューターのモニタか。携帯やスマートフォンの画面か。あるいは映画かもしれないし、これから乗り換える電車のやって来るホームの線路かもしれない。


 あなたは今何を聞いているだろうか。

 テレビのコマーシャルの音か。たまたま好きな曲を流しているラジオか。コンビニの有線か。それとも車の中で、お気に入りの曲を山ほど流しながら一緒に歌いでもしているかもしれない。


 あなたは今誰と一緒にいるのだろうか。

 家族か。親しい人か。友達か。恋人か。それとも、ひとりを楽しみながら、駅までの道を歩いているだろうか。


 あなたは今何を考えているだろうか。

 夕食のことを。昼食に食べたそうめんのつゆの出来が今ひとつだったこと。明日月曜が気が重いということ。それとも、誰か何か、とても大切なこと。考えるだけで、あなたの頬に自然に笑みが浮かぶ、その類いのこと。


 あなたは今誰の声を聞いているのだろうか。

 友達の声。家族の声。あるいはあなた自身の声。それともあなたがお気に入りの、あの映画監督のインタビューを聞き返しているところ。


 私は今、あなたのことを考えている。これは一体恋だろうかと、自分の胸の内を覗き込むようにしながら、あなたのことを考えている。楽しそうな、幸せそうなあなたを想像して、私はひとり胸をあたたかくし、いやこれは恋ではないと、その時だけの結論を下す。次の瞬間には、いやきっと恋だと、真逆の結論を下す。私はここのところ、そんなことを繰り返している。


 楽しそうで幸せそうなあなたを見て、私は時々幸せになり、時々辛くなる。あなたのその楽しみに私はもちろん含まれず、私はただ遠目にあなたを眺めるだけで、あなたは私の視線に気づかずに、私はここにいることすら知らない。

 あなたの周囲に、私は嫉妬し、妬みの末に自分が惨めになって、あなたに背を向けて、だがそれがもっと辛いことに気づくと、またあなたを見つめることを再開する。

 あなたを見つめずにはいられない。幸せそうな、楽しそうなあなたを、私は見つめ続けずにはいられない。


 昔々、初恋の人を背の高い花に例えて、自分を雑草に例えたが、現実に私は雑草ではなく、水や空気ですらない。あなたにとって、私は存在しない何者かで、せめて私がここにいることに気づいてはもらえないかと、近頃私が考えるのはそんなことばかりだ。

 私はここにいてあなたを見つめている。あなたは私がこの世に存在することすら知らず、他の誰かに微笑み掛けている。私はここにいて、せめてあなたが振り返って、その笑顔をはっきり見ることができないだろうかと考えてる。一度でいい、あなたが、私に微笑み掛けてはくれないだろうかと、そんなことを考えている。


 私が雑草なら、土の下で根を伸ばして、いずれあなたの根に触れることもできるだろう。

 私が水なら、あなたの乾いた葉を潤すことができるだろう。

 私が空気なら、私はあなたに必要なのだと、胸を張ることもできたろう。


 私はそのどれでもなく、この世に確かに在ると証明もできず、あなたの視線と微笑みの行方によって不在の証明をされ、あなたへの想いの存在によって、私はこの世に在るのだと知覚するしかない。

 私がここに在るなら、あなたが見たいものを塞いでしまう邪魔ものにしかならないだろうか。ただ目障りな遮蔽物でしかないだろうか。

 あなたを想う私は、確かにここに存在するが、私を知らないあなたにとって、私は存在しないものだ。その間で、私は自分が在るのかないのか迷い、混乱し、ないなら消すこともできない自分の存在を、空の掌を見下ろしてただ持て余す。

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喫茶店

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 好きな人がいるの、と彼女が言う。おやおや、と私は思いながら、手元のコーヒーに視線を落として、スプーンでかき混ぜている振りをする。彼女はカプチーノの泡をスプーンの先でいじりながら、上に掛かったチョコレートの線を、軽くくずして遊んでいる。


 で、と私は先を促す。どんな人?

 うーん、と彼女は考え込むような表情を作る。考えているのは、どんな人かと言うことではなくて、どう言えば私に上手く伝わるのか、そっちの方だ。

 話してるととっても楽しい人で、気遣いがすごくできる人で、いろんなことに詳しくて、好きなことにはすごく夢中になるタイプ。

 言葉を連ねる彼女の顔がほころび、幸せそうに火照り、決して整っていると言うわけではない彼女の顔立ちが、こんな時には何倍も魅力的に見える。彼女の言うその人が、そのまま彼女にも当てはまるのだが、彼女自身には自覚もないらしい。


 私はやっとスプーンをコーヒー皿に戻した。

 脈はありそう? 意地悪のつもりでなく、私はただ訊いた。

 彼女の笑みがいっそう深くなり、それからぎゅっと強く瞬きをして、鼻先にしわを寄せる。飼い主相手に困った時の犬のような表情だ。それから、彼女は冗談めかした仕草で首を振った。

 友達もたくさんいる人だし、正直わたしのこと、ちゃんと見覚えてるかどうかも怪しい。その人のいるところにいると、壁紙みたいな気分になるの。

 そんなことはないよ、と私は言わなかった。多分彼女はそう言って欲しいだろうと思ったが、同時に、そんなおためごかしを、私の口から聞きたくはないのも知っているからだ。


 彼女は魅力的な人だが、恋人にしたいとか一緒に暮らしたいとか、そういうこととは少し別で、世界の大半は彼女が誰にも気を使わない、わがまま勝手に振る舞う自由気ままな人間だと思っていて、だから一緒に真剣に暮らす相手には向かないと思っているらしい。

 私自身、彼女と暮らせば、互いに気遣うのに疲れてしまうだろうと言う感想を抱いていて、親しくなれば見えて来る、彼女の意外な繊細さと、気ままに振る舞っているように見せながら、実のところこちらに気づかせずに気配りをするところと、ああこれは、たまにひどく疲れてしまうのだろうなと、私は彼女のことを考えている。

 実際に、周期的に彼女は人嫌いに陥って、人恋しさを全身に滲ませながら全身に針を立てる。それはまるで淋しがり屋のハリネズミのようで、そうなれば付き合いの長い私も、気をつけて距離を取らなければ針に刺されて傷つくことになる。私が傷つくと、彼女がまた傷つく。


 滅多と恋患いの話などしない彼女の今度の人は、ほんとうに優しくて気持ちの良い人なのだろう。けれど、恋が成就するかどうかはまた別の話だ。

 その人と、もっと一緒にいたいけど、みんな忙しいから。

 彼女が言わないその後は、忙しいから、私と新たに付き合うための時間を捻出させる価値なんて、私にはないもの、だ。


 難しい問題だ。私は彼女をとても好きだが、世界の他の人たちが、同じように彼女を好きかどうか知らない。私にとって、私以外の誰かが彼女をどう評価しようと、私の彼女への評価にはまったく影響はなく、もちろん、私の他に、私のように彼女を好きだと言う人がいるなら、それは単純に喜ばしいことではあるが、同時に、私は時々そんな人たちのことを想像して、その人たちに嫉妬するのだ。


 私は、彼女を他の誰かと分け合うことに慣れていない。私から見れば、充分に人好きのする彼女は、けれど恋の相手に選ばれることは滅多となく(私も、人のことはまったく言えた義理ではない)、だからいわゆる、恋人ができて友情を二の次にする云々と言う事態が、私たちの間に起こったことがなく、彼女は大抵の場合、常に私ひとりのものだった。


 私たちを親友と評する人たちも数多くいるが、私はその呼び方に慣れていず、彼女を親友と決めるのは私であって他の誰でもなく、私を親友と決めるのも、また彼女だけであって他の誰でもあるはずがない。

 私たちは、互いを親友と呼ぶことをせず、それを言葉にして確かめ合ったこともない。私たちは、非常に親しい間柄でいて、長い間この親(ちか)しさを続けていて、それを特に名づけたこともなければ、名づける必要があると感じたこともなかった。

 多分、だからこそ、私たちはこんなに長い間、互いの皮膚の融け合ってしまうような親しさを、抱き続けていられるのだろう。


 私はコーヒーを飲みながら、彼女が語る新しい恋の相手に、ひそかにやきもちを焼く。

 彼女の、弾むような声の恋の話を聞くのを楽しみながら、見たこともないその人の、慈母のような微笑を想像して、ひりつくような痛みを覚える。


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投稿者 43ntw2 | 返信 (0)

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