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青へ

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渡るそよ風の、寂しく吹き通る野に一輪

淋しげな様子はなく立つ花の、空の色を写して揺れる花びら


仰向いて、降り落ちた空の破片のように

底のない蒼さが光を集める小さな花の

微風にまぎれる香りの甘さに

手折るため伸ばした指のためらう先

見つめているだけでは足りず

いずれ枯れるとわかっていても

懐ろに抱きしめずにはいられず

土に張ったか細い根を引きちぎる愚かな己れの手指


空から分かたれたその青さ

呼吸を忘れて見入り、吸い込まれて、飲み込まれる

果てのない青の深さへ溺れてゆく

溺れ果てて、青に染まる

ちぎれた根に絡みつかれ

いずれそこへ張る根へ吸い上げられる己れの命は

青く照り映える花びらの縁ににじむ淡い蒼


青へ、ただ青へ

何もかもを染め上げて、ただ青へ

見上げればそこにある空の色を写して

花びらの儚さとは裏腹のその根の猛々しさ

野の風に吹き揺れて一輪きり

道連れののないその青さで世界を染めて

呼吸すら忘れて眺め続ける後には、唇すら青く染まる

青い唇を噛む、花びらを食む

そして血も青く染まる

染まり果てて、花に還る


青へ、ただ青へ

ただ、その青へ、青へ

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骨になればずっと一緒にいられる。

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手が冷たい

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料理で凍えた手を淹れた紅茶で温める。

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あなたの色

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 あなたを大事な人と思った時に、世界はひと色色を増やした。私の世界は、そうやって味気なさから抜け出してゆく。

 色を増やした私の世界は、永遠にそうやってあるのだと、私は信じていた。


 世界がまた色を失う。あなたを失って、世界が色を失くしてしまう。私の味気ない世界が戻って来る。そして私は、失った色を取り戻す術を知らず、あなたが私に与えてくれたあの色が、あなたなしで取り戻せるのかどうかを知らない。

 あなたが染めた私の世界が、色を失って、今は灰色ですらない、ただのもやもやとした影のように見える。奥行きのない、平たいぺらぺらとしたものらしきものがふらふらと動いて、眺めていると息苦しくて、私は辛うじてまだ残る他の色へ目を移し、やっとひと息つく。

 けれどどこを見たところで、あなたの色はない。


 あなたが不意に消えた。何の前触れもなく、さようならと言う間もなく、私が知ったのは、あなたがもうどこにもいないのだと言う事実だけで、そう知った瞬間に私の視界から失われた色を、私は頭の中で思い浮かべて、その色を鮮明に覚えていられるのは、一体いつまでだろうかと、今もまだあなたがもうどこにもいないと言うことが信じられずに、世界にあなたの色を探している。


 世界はたやすく色を変える。様々な理由で、世界の色は変わり続けている。空に掛かる虹は永遠にそこにあるわけではなく、雨の後に澄んだ空気が、いつまでも澄んままであるわけでもない。

 私の目に映る世界の色は、私の気分でも色を変えるのだし、疲れている日には、何もかもが薄ぼんやりと灰色がかっていても仕方がない。

 あなたの色を欠いた世界に、私は否応なしに慣れては行くだろう。生きるとはそういうことだ。私たちは失い続け、喪うために生きている。失くしたものを恋い、懐かしがり、改めて得たものを、また失うことに恐怖しながら生きている。

 そうして私は、あなたの色を喪った。


 あなたはまたいつか、ここへ戻って来るだろうか。別の色を携えて、その時はもう、あなたはあなたと言う存在ではなく、それでもあなたは、いつかここへ戻って来るだろうか。

 色を持たない私の、濃淡の際さえ曖昧な私の世界に、あなたが与えてくれた色はまた失われて、私は再び自分の世界の味気なさを思い知っている。

 あなたの持つあなたの色を、私はまたいつか取り戻す時があるだろうか。あなた以外の別の誰かが、あの色をまた、私の世界に与えてくれるだろうか。


 あなたの色を恋いながら、私はそれはあなたの色だから恋しいのだと言うことを知っている。

 他の誰かが、私に与えてくれるかもしれないあなたのそれと同じ色が、私の世界を同じように染めてくれるのかどうか、私には分からない。

 あれはあなたの色だった。あなただけの色だった。そのあなたの色が、私はとても好きだった。


 あなたは、私の世界を春にし、夏にし、秋にし、そして今、私の世界は冬になった。この冬は、しばらく終わらないだろう。あなたの色なしに、春はひどく遠い。

 夜が恐ろしいのは、多分色が見えないからだ。動く影すら見分けもつかない、まったくの闇色が、私はきっと恐ろしいのだ。

 冬の夜に、私はあなたのことを考える。あなたの色のことを思い出す。朝までの長い時間、春までの気の遠くなるような間、私は、必死であなたの色のことを考えて、空っぽの自分の胸を満たそうとする。

 色のない、あなたの気配のない世界は、ひどく虚ろだ。


 春はいつ来るだろう。あなたの色を欠いて、私の世界に、再び春はやって来るだろうか。

 冬の白さが、じきすべてを埋め尽くす。私はその冷たさに怯えて、闇の隅っこにうずくまる。

 あなたがどこにもいないことに、馴れるのはいつだろう。うぞうぞうごめく灰色に満ちた視界に、馴れるのは一体いつだろう。

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私はパンツ

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 2センチくらいある幅広の腰回りの白いゴムは、私を履いていた主(ぬし)の体の線に馴染んでところどころ伸びている。グレーの地は、何度も水をくぐってくったりよれよれだ。ボクサーパンツと呼ばれる私の、前の主は、私を着けるに正しく男だった。きちんとそれ用に作られた機能を、私を履いて、男である前主(まえぬし)は正しく使用していた。

 私の今の主は女性だ。この女(ひと)は、私の前の主と極めて親密な関係にあり、どれだけ親密だったかと言うと、前主と彼女がふたりきりで何やら忙しい間に、彼女のレースがひらひらした下着と私が、こっそり逢瀬──とあえて言おう──を重ねていたくらいだ。

 ある頃から、私は彼女の下着とまったく逢えなくなり、前主の体温の上昇は、怒りや憤りと言ったような感情によるものになり、そしてある日、私は彼の体から離れてどこかへ放り込まれたきり、しばらくの間日の目を見ることもできなくなった。

 まだ残ってたの。

 久しぶりに、天井から降る明るさを浴びて、私は思わず目──もちろんこの女には見えない──を細めた。以前はたまに私を握ったり掴んだりしていた彼女の手指が、私に、どこか恐る恐ると言う風に触れて、そっと掌の上に取り上げる。

 彼女は、かすかに怒りを含んだような表情を瞳に浮かべて、私からちらりと視線をずらして床の方を見た。そこには、洗濯機の中で一緒によく水流に揉まれた主のシャツたちが何枚がいて、彼女は私とそのシャツたちを交互に眺めて、ひとつ小さくため息をこぼす。

 彼女は私を、元いた場所へ放り、それからシャツをまとめて取り上げると、どすどすけっこうな足音を立ててどこかへ消え、私は一体何がどうなっているのかと、ひとり訝しがるしかなかった。

 すぐに戻って来た彼女──シャツたちはどうなったのか、彼女は空手だった──は、またひとつため息をつき、しばらく私を眺めた後、不意に立ち上がって私をまた取り上げ、自分の下腹辺りへ広げた私をあてがう。

 ま、いっか。

 彼女のつぶやきの後、私は彼女のパジャマや部屋着の入っている引き出しに、きちんと畳んでしまわれ、彼女がひとりでひたすらだらだらしたい時に履かれる、どんな扱いも気兼ねのない、よれよれの短パンとなって生まれ変わった。

 私の腰回りのゴムは、当然ながら新しい主となったこの女の細い腰にはうまくまつわりつかず、本体は丸いお尻をきれいには包み込めず、前立て部分はまったく見向きもされなく──前と後ろを見分けるには必要だと、彼女がつぶやいてはいたが──なった。

 私は、男物のボクサーとしての存在意義をこの新しい主に完全に否定され、一時はハサミやその類いの刃物でも見掛けたら、何とか私をもう使用不能なまでにずたずたに切り裂いてくれないか頼もうと、本気で考えてすらいた。

 その頃は、彼女に履かれても彼女の体に馴染むこともせず、だらりとなった腰回りのゴムをいっそう頑固に重くして、わざとずりずり彼女の細い腰からずり落ちて、そのまま脱げ落ちてしまおうとしたものだ。

 へその下までずるずる下がる私を、それでも彼女はそのたび引き上げて、一体何が気に入ったものか、他にも似たような短パンを持っていると言うのに、私を捨てずに彼女は私を履き続ける。

 洗濯機の中で、他の下着やシャツから聞いたことだが、あの時どこかへ消えた前主のシャツたちは、トイレの掃除に使われた後に洗ってももらえずに捨てられてしまったそうだ。洗濯機の中でタオルに絡みつかれたまま、私はぞっとしながらその話を聞いた。

 そうやって無惨に終わりを迎えた他のシャツたちに比べれば、私の成り行きは天国と言ってもいいくらいの扱いで、結局私は、男物のボクサーとしてのプライドを胸の奥深く──そうだ、私たちにだって胸がある──たたんでしまい込んで、この女の部屋着用ショートパンツとして、新たに生きて行くことを受け入れることにした。

 今日も今主(いまぬし)は、どこかから部屋に戻って来て、疲れたと言いながらきっちりと体を包んでいた服をばさばさと脱ぎ捨て、きれいな下着と私とシャツを掴んで風呂場へ行く。私たちはかごの中に放り込まれ、湯気のただよう生暖かい脱衣所で彼女を待ち、彼女がちょっと古い皮膚でも1枚脱ぎ捨てたようなさっぱりした顔で、ほかほかあたたかい体で戻って来て私たちを身に着けると、彼女と一緒に、何となく自分たちも生まれ変わったような気分を味わうのだ。

 この後、私は主に彼女の丸い尻に敷かれ、押し潰されてもひと言も文句を言わずに、彼女のこの丸い尻を、彼女のショーツと一緒に包み込んで、風呂上がりの体温が下がらないようにできるだけ尽力する。

 今日の彼女のショーツは──パンツと呼んだら以前怒られたことがある──、綿100%の、へその上までしっかり覆うヤツだ。色こそピンクで小花の散る可愛らしい見掛けだが、口が達者で自分の役目──彼女の細い腰と丸い尻をしっかりしっかり包み込んで、腰と腿のゴムが彼女のかよわい白い皮膚を傷つけたり締めつけ過ぎたりしないように──に、彼女の身長と同じくらいの自信と誇りを持っていて、私と一緒に彼女の腰回りをあたためておくのが気に入らないらしい。

 男のパンツのくせに。

 ピンクのパン──ではなくて、ショーツがぶつくさ言う。私のこの役割は、私の選んだことではないのだが、ピンクのショーツにはそんなことは知ったことではなく、一致団結して今主のこの女(ひと)の腰回りをあたためておこうと私が思ったところで、ショーツの方には一向に通じない。

 同じ形の、淡いブルーのショーツはもう少し物分かりが良くて、地味で縁の下の力持ちでしかも全然報われないけど、それでもわたしたちって大事な存在よねと、私に話し掛けてくれる。

 このブルーのショーツは今主のお気に入りなのか出番が多く、私とかち合うことも多々あった。だがそのせいでくたびれ方も早く、そろそろお役御免なのではないかと、卵色のショーツがお揃いのブラジャーとひそひそ話し合っていたのを、洗濯かごの中で聞いた私の心境は穏やかではな...


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小さな楽しみ

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 私はほんとうに、始終飲むもののことばかり考えているようだ。

 棚の中に紅茶がたくさんあると安心する。自分で買ったものも人から貰ったものも、どの順番で使うかと、考えている時の私の顔は、きっと見れたものではないだろう。

 どこででも紅茶が葉で買えると言うわけではないので、すべて切れしまった時のために、ごく普通のティーバッグも箱で買って置いてあったのだが、それが近頃空になってしまった。次の箱を買って来るかどうか、まだ悩んでいる。


 紅茶を葉で買える店は大体把握していて、街の中心地、地中海の食料を主に扱う店には、他では見たことがないニルギリやウバやダージリンやケニアの葉が置いてある。スコティッシュ・ブレックファストを、私はその店で初めて見掛けた。

 気兼ねなく使う葉は、中近東系の食料品店で買うのだが、この手の店は入れ替わりが激しく、この間までそこにあった店がもうないと言うことも珍しくない。おかげでこの紅茶の葉を、私はアラビア語の使える友人知人たちに空箱を見せ、どこかの店で見掛けたことはないかとしつこく尋ね歩く羽目になったことも何度かあった。

 そのために、この葉の空箱を、私はいつまでも捨てることができないのだ。


 実家へ寄る機会がある時は、真っ先に紅茶を買い込む。

 気に入った店があり、そこではコーヒーの方が主な売り物なのだが、紅茶もひっそりと扱っている。ティーバッグと葉の両方を、カバンの隙間を見繕いながら、できるだけ沢山買う。家族は呆れている。

 不思議なことだが、この街で手に入れた紅茶は、実家に持ち帰ると水の質が違うせいかまったく違う味になる。実家付近で手に入れた紅茶は、どこでどんな風に淹れてもいつも変わらず美味しい。

 実家ではコーヒーしか飲まないのだが、普段の私はほとんど紅茶しか飲まない。紅茶は、いくら飲んでも飽きない。

 私にとっては、紅茶はいわば米の主食のようなもので、コーヒー(エスプレッソ系の)はちょっと特別なご馳走らしい。週に3度以上カフェラテを淹れると、途端に紅茶が恋しくなる。


 ティーバッグは、淹れた後にそのまま捨てればいいが、葉を使う時は後始末が少々面倒だ。以前はティーポットを使っていたこともあったが、一度にひとり分しか淹れなくなってから、マグカップしか使わなくなった。

 茶漉しに葉を入れて、そこに湯を注ぐと言うやり方は好きでなく、何かいい方法はないかと探して、Tea infuserと言う、湯の中に直接沈める茶漉しのことを知った。

 簡単に言えば金属製のティーバッグのようなもので、よくある茶漉しの小さなサイズをふたつ合わせたような形をしていて、スプーンのように持ち手がついていたり、長い鎖がついていたりする。

 使う葉の量によって大きさも選べるのだが、普通に店では見つからず、ネットで買おうとすると輸入する羽目になりかねず、ある時ふたつみっつ先の街で偶然見つけ、思わず複数買い込んでしまった。

 その後しばらくはこの茶漉しを使っていたが、これが意外と消耗が激しく、年に数度新しくすることになり、金属製だから形はしっかりしているのに合わせ目がゆるんで来てそこから葉がこぼれるようになると、もうだめだと新しいのを下ろすのに、ひどく心が痛むようになった。


 そうして結局、いわゆるお茶パックとやらを使い始めてしまった。

 これを、私は堕落と感じたのだが、前述の茶漉しよりもずっと簡単に店で見つかると言うことは、紅茶を葉で飲むのに面倒はいやだとか、形のきちんとした道具をもう使えないと捨てるのは気が進まないとか、そう感じるのは私だけではないと言う証拠だと思って、以来ずっとお茶パックとやらを使い続けている。

 葉を、スプーンですくって、開いた不織布の袋の中に入れる。包みの中の葉は、私がスプーンですくうたびに量が減り、保管用の缶の中には新しいティーバッグが増えてゆく。私はそのちまちまとした作業を、喜びとともにやる。

 葉はすくうたびにいい香りを立てて、目の前で減って行く葉は、つまり次に新しい紅茶を買う時期が近くなると言うことを示している。

 次はどんな葉を買うかと、考えながら私は、小さな袋に葉を詰めてゆく。私はこの作業が大好きだ。


 紅茶を保管している棚がいっぱいだと、心底幸せになる。そしてそこから少しずつ箱や包みが減り隙間が多くなって来ると、不安になると同時に、また新しい葉やティーバッグを買って来れると、別に幸せの感覚が湧いて来る。

 こんな風に書いていると、私はまるで、ちょっと危険な中毒患者のようだ。

 飲み物を持たずに外出すると、必ず不安になる。喉が渇いたらどうしよう、紅茶を飲みたくなったらどうしよう。ドーナッツショップが、角ごとにあるこの街でそんな不安は滑稽なのだが、どの店で紅茶を買っても、自分で淹れた紅茶の方が絶対に美味しい──と感じる──に違いないと信じている私には、カバンの中に、自分で淹れた紅茶の入った水筒がない状態は、まるで上着も手袋もなく零下20度の外へ出て行くような、そんな愚かで不安な気分でしかない。


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現実逃避

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 少し特殊な内容のものを書いている。分からないことばかりで、調べたところで自分で体感できることではなく、使うのはひたすらに想像力だ。考えるたびに脳が引き絞られる。耳の後ろが痛い。

 気楽に引き受けて、こちらの楽観と怠惰を見通している相手だから、すでに過ぎている締め切りを数日伸ばしてもらい、ふたつ目の締め切りが、次にやって来る締め切りと重なることに気づいて、今私の頭の中は嵐のど真ん中だ。

 頭痛がほんものになりつつある。


 それでも何とか書き進める。10文字書いて15文字消す。消した途端、前に書いたところが気になり始めて、つい読み返して書き直す。こちらも5字書いたら7字消すと言う具合に、進んでいるようで後退ばかりだ。結局ちっとも進まない。

 消えたら困るから保存だけはこまめにやる。そうして、途中で、消した前の方が良かったと思った時のために、バージョン違いをいくつも保存してしまう。結局どれも同じに見えて使わないのが目に見えているのに。

 いくつもいくつも並ぶ、微妙に名前の違った文章の、開いて眺めても違いは分からず、読み返すだけ時間の無駄だ。

 こうして新たな締め切りがどんどん近づいて来る。自分の愚かさを嘆くのは現実逃避でしかない。


 売る文章などではない。好きに書いているだけのものだ。

 遊びに頭を痛めて、それでも求められていると言う一点に望みを賭けて、相手を落胆させる未来に、すでに自分に失望している。

 頭の中にすでに映像が出来上がっていて、それを文章に直す手が進まない時と、映像がまったくきちんと浮かばない時と、苦しいのは後者の方だが、出来上がりの程度を信用できないのはどちらの場合も同じだ。

 書き上げて、相手に喜んでもらえるだろうかと思う以前に、そもそも読んでもらえるのだろうかと、そう思い始めると手が止まる。自分だけが読むためではなく、こんなものをと事前に言われて書くのは、目の前にその人がいる分、苦痛が増える。

 それでも、書き上がった時の達成感が味わいたくて、私はひたすら書き続ける。


 学校で習った作文以外に、文章を書く勉強などしたことがなく、書くのが楽しいと思ったこともなかった──苦痛ではなかった──のに、何か吐き出せとそう言われた時に、私は当然のように文章を書くことを選んでいた。

 あの瞬間のことを、今も私は憶えている。

 あの時なぜ、私は書くことを選んだのだろう。紙を探し、ペンを揃え、下手くそではあってもそれなりに読めはする手書きの文字を必死に並べて、私は無邪気に、ひたすら吐き出し続けた。

 吐き出すことが目の前で形になる、そのことが楽しくて、私はただひたすら、目の前の紙を書き文字で埋め続けた。


 書き文字が印字に代わり、印刷された字は書き文字よりも文章をマシに見せ、それが良かったのかどうか、今も時折私は考える。一体私の吐き出すこれらは、何かしら価値のあるものなのだろうか。自分の時間を使い、キーボードを打ち続けると言う作業で体を使い、ほとんど嵩のない脳を無駄に絞り、私は吐き出し続けているが、これはそうする価値のあるものなのだろうか。

 あるのかと問われれば、知らないと私は答えるしかない。ないと答えてしまうのは、あまりにも真実過ぎて、そこまで私は暴力的に正直にはなれない。

 私は、自分に嘘をつき続けている。


 吐き出すものに意味などない。私はきっと、吐き出すと言うこの行為そのものに取り憑かれているのだ。吐き出した後のことなど知らない。私はただ吐き出したくて吐き出しているだけなのだから、吐き出した後の吐き出したそのもののことなどどうでもいいのだ。

 それなのに、ほんの時折、何かの穴埋めだろう文章を求められて、それは多分、私は量を吐き出すだけなら確実に与えられた時間内にやり遂げるだろうと、ただそれだけで私へお鉢が回って来るだけのことなのだが、うっかり自惚れてしまう私は、ない脳みそを絞って、いつもなら好き勝手に書き散らせるあれこれを脇へ追いやり、求められている何か、私の中には存在しないだろう何かを吐き出そうと必死になる。

 ないそれを吐き出せるはずもないのに、私は何とかそれを見つけて吐き出そうと、愚かに必死になる。


 頭の中で予想している3分の2ほどを何とか書き進めて、頭痛のあまり私は手を止め、今は現実逃避の真っ最中だ。

 書き上げる。それだけは何とか果たす。吐き出した後のことは知らない。私の責任ではない。終わってしまえば、私はきっとそれを、まるで他人の書いたもののように読んで、楽しみさえするのだろう。

 現実逃避に脳は使わない。ただ指先の動くまま、筋の通らない何か文章のようなものを、私はただ吐き出す。吐き出して、形にして、形になっているかどうかも定かではないまま、私は丸を着けてそれを終わらせる。

 脳の中にある何かを、考えもせずにただ垂れ流す。勝手に動く指先を私の目が追い、文字を脳へ送り込んで、ああ私はこんなことを頭の中に抱えているのかと確認する。


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運の悪い日

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 雪の降る中バスを待ちながら、手にはさっき買ったばかりのカフェラテが、プラスティックのふたの小さな飲み口からかすかに湯気を立てている。ちっとも美味しくないのが残念だ。

 まるで生の豆でそのまま淹れたような味。我慢して、あたたかいカフェラテであたたまる両手には感謝しながら、私はまたその出来の残念なカフェラテをひと口飲んだ。


 大手のチェーンのコーヒーショップ──ドーナッツショップと言うべきかと、私は少々迷う──なのに、スターバックスへ対抗して始めたエスプレッソ系ドリンクの味がこれでは、普通のコーヒーも恐らく私の期待したものとは違うと、心の中で結論づけて、色々ともうどうでもいいと投げやりになりながら、私は来ないバスを待っている。

 雪はますます激しくなり、私の頭の上にも背負ったカバンにも真っ白に積もって、運動靴の中も少しずつ濡らし始めているから、私はブーツを履いて来なかったことを悔やんでいた。

 こんな日もある。何もかもがうまく行かない。つい増えてしまった買い物の荷物は重く、バスはなぜか遅れていて、待ち時間の寒さしのぎに買ったカフェラテが期待外れで、雪はひどくなる一方だ。


 近辺と比較すると、異様なほど気候の穏やかなこの街で、久しぶりに普通に寒い冬だ。多分街の人たちは、零度になったところでタンクトップで外を歩き出す。去年は、零下10度で文句を言っていたと言うのに。

 零下20度の吹雪の中──零下30度以下の感覚になる──で、人たちは紙コップのコーヒーを片手に煙草を吸う。がたがた震えながら、少しでも風をよけられる場所を探して、屋根や壁のあるところでは基本的に禁煙のここでは、それはほとんど無駄な努力だが。

 雪で視界の利かない日に、ぼうっと赤く光る煙草の火が点々と見えるのは、なかなかシュールな眺めだ。喫煙自体に興味はないが、そこまでして煙草を吸いたいのだと言う気持ちと、凍傷や凍死の危険すら喫煙と引き換えにするその蛮勇に対して、私はひそかな敬意を抱いている。

 煙草を1本吸う間に、紙コップの中のコーヒーは冷め、多分表面に氷の膜が張り始めるだろう。それでも人たちは、吹雪の中で煙草を吸う。


 バスはまだ来ない。影も形もない。私の足元だけを残して、ぐるりと丸く雪が新たに積もり始めている。

 カフェラテはすでにぬるくなって、ゆっくり飲むつもりだったそれを、私はもうほとんど終わらせ掛けていた。

 車はスピードを落とし、利かない視界に、ドライバーたちは明らかにいらいらしている。バスが来ないのは、どこか途中で事故でもあったのかもしれないと考えた。事故などない方がいい。傷つく誰もいない方がいい。

 またカフェラテをひと口飲む。飲んでも飲んでも、この残念な味には慣れない。このカフェラテの出来も、私にとっては事故のようなものだ。

 角を曲がるたびにコーヒーショップのあるこの街で、たまたま買ったカフェラテの出来が残念だと言うのは、ほとんど奇跡に近いような気がして来る。

 これなら自分で淹れるカフェラテの方がよっぽど美味しいと、やって来ないバスへの苛立ちも含めて、私はコーヒーショップに八つ当たりをしている。

 足が冷たい。私はその場で足踏みをした。


 こんな雪の中では本も読めない。どちらにせよ、カフェラテのカップで手が塞がり、本を持つことができない。そのカフェラテは残念な味のまま、もう手の中でとっくに冷えて、もう私の冷たい手をあたためてもくれない。

 時間を見るために取り出した携帯の液晶に、たちまち雪が積もる。私はそれを指先で振り落としながら、濡らさないように気をつけて、やっぱりバスが遅れていることを再び確認する。

 無為に流れてゆく時間をやり過ごすのに、携帯の中に放り込んである音楽を聴くこともできるが、PanteraとボトムズのサントラとSOUL'd OUTとRemy Shandがめちゃくちゃに並んでいるプレイリストを、ヘッドフォンもなしに再生する気にはなれない。

 音楽の代わりに、私はくしゃみをひとつした。


 ついに紙コップが空になった。プラスティックのふたの上には雪がうっすら積もり、唇を近づけると冷たい。カップを持っている指先も、そろそろしびれ始めている。

 カフェラテの出来が残念だったのが業腹で、すぐに紙コップを捨てる気にならず、そんなカフェラテを飲む羽目になってしまった自分の愚を笑うために、まるで罰のように、私は空のカップを持ったまま、雪の中でまだ来ないバスを待っている。

 

 手も唇も爪先もすっかり凍えてしまった頃、やっとバスの姿が見えた。

 定期を取り出す手が、ポケットの中でもたつく。バスの中のあたたかさに、思わずため息をこぼして、その息が白くないことに驚きながら腰を下ろした。


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ある朝のこと

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 珍しく混んではいない電車の中で、カバンを膝へ乗せながら椅子に腰を下ろし、そうだ今はまだ学生たちは冬休み中なのだと思い出す。

 それでも席は大体埋まる程度の車内をちょっと上目に見渡してから、私はカバンの中から本を取り出した。

 ちょっと慌てて出て来て、適当に本棚から取り出して来た本は、それでも充分興味をそそる──もう何度読み返したかは分からないのに──内容だったから、私はいつものようにわくわくと表紙を開き、目次を無視して早速中身へ読み進む。

 電車が止まり、人たちが立ち上がって降り、新しい人たちが乗り込んで来て、わずかずつ車内は混み始めていた。いつの間にか、隙間のあった私の隣りには誰かが坐っていて、本に夢中な私はそれが誰かを特に見ることもせず、胸元へしっかりとカバンを抱え込んで、目の前のページに熱中している。

 競馬好きの主人公が、怪しげな競馬予想紙の会社へ勤め、馬と馬主についての情報を集めているうちに八百長疑惑へ突き当たりどうのこうの、疑惑の面子の中には若い美しい女性がいて、当然ながら若い男である主人公はその女性とどうのこうの、結局八百長の仕掛け人である某馬主と彼女はどうのこうの、あらすじはすっかり覚えているのに、作家の、奇妙に情熱のこもった文章のせいかどうか、何度読んでも初めてのように面白くて仕方がない。

 私は馬にも競馬にも興味はなく、美しい男女の恋愛にも当然縁はない。読書は、非日常を覗けるから面白いのだ。自分とは無関係のフィクションの世界を覗き見しながら、今私は、ヒロインと肩を並べて馬主席にいる主人公と同じ目線で、レースの行方を追っている。

 このレースはどの馬が1位になるんだったかと、思いながら、アナウンサーがわけのわからないカタカナの名前を羅列して、馬がどんな順位でどんな風に走っているかと説明しているページを、ちょっと瞬きしながら読み進み、ページをめくったところで、何度読んでも決して馬の名前を、今回もやはり私は覚えてはいなかった。

 どの馬が1位になっても、話の筋にはあまり関係ない──大事なのは、馬の持ち主の方だから──ので、私は自分の記憶力にあまり落胆もせずに、さっさと話を読み進む。

 ヒロインが勝ち、彼女に便乗して馬券を買った主人公も勝ち、じゃあふたりで祝杯でもと彼が誘ったところで、彼女の愛人と目される某馬主が彼らに声を掛ける。

 ──これはこれはお珍しいところで。

 小説の中では、成り上がり後の投資先として馬を買ったにしては、見た目はそれなりに上品な中年男性だと描写されるこの馬主を、私は見知った俳優の誰かに当てはめて想像しながら、馬主と言うのは一体どんな人種なのだろうと読む間に考えている。

 主人公の方は、いつか大金を掴んでやると、やたらとぎらぎら野心に燃える青年として描かれているが、正直なところ、話の筋はともかく、この主人公は私の好みではない。競馬で大金を稼ぐと言うまったく持って非現実的な考えは、ネットで本を買う時にクレジットカードを使うのすら躊躇する小心な私にはまったく理解の埒外だ。

 勝った馬券でいくら懐ろに入る、と言う会話を3人がしている。私の何ヶ月か分の給料の話だ。現実の話ではないから、嫉妬もない。誰かが私の目の前で同じ話をしたら、私はきっと、その金額で何冊読みたい本が買えるかと換算するだろう。買うなら、この同じ作家の本を、本屋の棚の端から端まで一気に買ってみたいものだ。

 そんな大金が一度に手に入るなら──濡れ手に粟、と言うのはこういうことを言うのだろう──競馬もいいかもしれないと、勝った馬券を現金に変え、上着の胸ポケットに入れてしっかりとボタンを掛ける主人公が、家に帰るまでスリに気をつけなければと内心考えたところで、私は思わず平たい自分の胸へ掌を置いてしまった。

 馬主の男性が、何か意味ありげに青年を食事に誘う。もちろんヒロインの女性も一緒だ。彼女は3人をいやがって、その場から立ち去ろうとしている。

 そこで、車内アナウンスが、次の駅が私の降りる駅であることを告げた。

 私は続きを惜しみながら本を閉じようとして、しおりが見つからないことに気づいた。慌てて出て来たせいで、いつも読む本には必ず掛けるカバーを今日は忘れて来てしまっている。どうしようかと一瞬考えた後で、とにかく何か薄いもの、ティッシュか何かを挟んでおこうと、私はごそごそと上着のポケットを探るために腕を動かす。

 その拍子に、右隣りの男性の肘をつついてしまった。

 「あ、すいません。」

 私は彼に向かって軽く頭を下げ、右側にそれ以上近づかないように気をつけながら必死で右側のポケットへ手を差し入れようとする。電車はすでにスピードを落とし、停まる準備に掛かっていた。

 その時、その右隣りの男性──ごく普通のサラリーマンで、私の父よりはずっと若く見えた──が、

 「よかったら、どうぞ。」

と、いつの間にどこから取り出したのか、差し出されたのは買った本の間によく挟まれている薄いしおりだった。出版社の名前や、同じ会社から出ている本の宣伝などが印刷されたあれだ。

 え、と私の右手は宙に浮いて戸惑い、その私に向かって彼は邪気なく微笑み、

 「買った本に2枚入ってたんです。」

 ほんとうかどうか、そんな風に言う。もう電車は、降車駅のホームの端へ入っていた。


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大切なこと

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 まだ私が、今よりもう少し若かった頃、私は小さな街の小さな会社で運転手として働いていた。

 運転手は他にもたくさんいて、私たちは仕事の終わりには客から受け取った金を会社に渡し、そこから歩合として一部を受け取って帰ると言う形で働いていた。

 その金のやり取りのすべてをそこでやっていたのが、彼女だった。


 家族経営のその会社で、彼女は一体どういう関わりだったのか、ひとり異人種の肩身をやや狭そうに、そして言葉もたまにおぼつかなく、金のことだけは心配いらなかったが、時々こちらとあちらで計算が合わないとお互い理解し合うのに時間が掛かることもあった。

 彼女を異人種と言う私も、その頃はまだ移民待ちの外国人で、言葉の慣れは彼女よりはましだったが、私に付き合う客の方の苛立ちは時々はっきりとこちらに伝わった。

 1円の間違いも受け入れない彼女は、それでも自分の方が間違っているとなればあっさりと引いて謝るので、彼女が正しい限りに於いて融通の利かない頑固さには時々閉口もしたが、概ね運転手の面々には好かれていたように思う。


 彼女の詳しい身の上などまったく知らず、特に誰とも親しくはしなかった私の耳に入って来る彼女の噂話などなく、運転手の幾人かが、彼女の外見をからかって冗談にする場面には何度か行き合わせたが、彼女はその冗談を理解できないものか、或いは端から相手にもしていなかったものか、普段と変わらない笑顔を向けるだけで、怒った顔など見掛けることはなかった。

 彼女は仕事の始まりには必ずおはようと言い、仕事の終わりにはさよならありがとうまた明日と、誰にでも言った。仕事の終わりにありがとうなどと言われることに誰も慣れてはいず──私だけではなく、誰も──、最初は誰もその言い方に面食らうのだが、慣れればそれが彼女風の、表現のややつたない彼女なりの、世界に対する感謝の意味なのだと悟って、

 「ありがとうって、何が?」

とちょっと意地悪く訊き返す誰もが、3度やっても彼女のありがとうが消えないと分かると、素直に、また明日と返すようになる。


 あらゆるものに意思があり、人はそれに対して常に感謝をすべきだと言うのが、彼女の生まれ育ったところではごく当たり前のことなのだと、私はそこで働き始めて随分経ってから彼女から直接聞いたのだが、

 「へえ、じゃあそこにある石でも?」

わざと転がっていた石を蹴飛ばしながら訊くと、彼女はその時両手に抱え込んでいたコーヒーのマグから顔を上げて、

 「ええそう。」

と真顔で答えたものだ。

 私はちょっとの間自分の行いを恥じて、赤くなった顔を慌てて隠した。


 私たちは特にこれと言った個人的な話をすることはないまま、それでも何となく互いに好意を抱き合っていたように、私は今も思う。

 一生懸命働くのは自分のためだったし、金を稼いで運ぶのは会社のためだったが、その金を直接やり取りする彼女に私の働きぶりを見せることを、私はいつの間にか汗水垂らして働くことの励みにするようになっていた。

 仕事始めに、特に必要はなくても会社に寄り、彼女に挨拶だけするようになると、

 「あなたの顔を見ると元気が出るの。」

 恐らく誰であっても、彼女は同じことを言ったろう。そうと思っても、私は毎朝会社に顔を出し、彼女──もちろん、事務所にいる他の人たちにも──に挨拶をして、彼女が私に微笑み返してくれるのを確かめてから仕事を始める。彼女は笑っておはようと言い、仕事へ出掛ける私に、行ってらっしゃいと笑顔を向ける。手を振る彼女に手を振り返して、私は事務所を出るのだ。

 仕事の終わりにまた彼女のところへ戻って、金の受け渡しをする時に、彼女はそれもまた習慣かどうか、丁寧な手つきで金を全部見えるようにこちらに渡し、硬貨を受け取る時には、私はわざと彼女のその広げた掌にいつも触れた。時々冗談に見せて、彼女の指先を握ったりもした。

 彼女はただ笑い、顔を赤らめでもしてくれないかと期待する私の気持ちに、気づかないのかただ受け流しているのか、朴念仁の私にとっては、ひどく勇気のいるその特別な行いは、最後までただの冗談に終わった。


 日銭稼ぎのその仕事を、もちろん一生するつもりはなく、私はようやく客船乗務員の仕事を得て、その会社から去ることになった。

 私には国を出る時に親が決めた婚約者がいて、だが移民をするつもりの私と婚約者は一緒に来る気はなく、一体いつ双方の親に結婚の意志などないと言うべきかと、まれの連絡を取り合うのはいつもその話ばかりの間柄だった。

 私の新しい仕事が決まった頃には、実は婚約者には新しい恋人がすでにいて、親たちは知らなかったが私たちの婚約はとっくに破棄状態だった。

 だからと言うわけではなかったが、新しい仕事のために会社を辞めると決まった時に、私はひそかに彼女に、待っていてはくれないかと、そう言う心積もりがあった。


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冬の読書

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 この間まで、日陰を伝って歩いていたのに、もう日向を求めて歩く向きを変える季節だ。一昨日は、バスを待つ間に読む本のページを繰る指先が、凍えてかじかんでしまった。

 あっと言う間に黄色く染まってしまった木の葉は地面に落ち、街路樹は半分くらい裸になっている。天気予報が、地面が凍るから気をつけろと喚いている。

 じきに雪が降るだろう。積もるかどうかは分からない。だが雪が降って、本格的に冬がやって来たことを知って、短くなった日を心の底から惜しむ。鬱々と暗い空ばかり眺めて、春を恋う冬の時間がやって来た。


 私が今住むアパートメントは、日の差す方向へ窓が大きく取ってあって、板張りの床に、冬の間は1日中長々と日が差す。そこはとてもあたたかい。

 夏はこの日差しが朝の間だけわずかに入る角度で意外に涼しく、深く考えて選んだ部屋ではなかったが、1年過ごした後で太陽の動きに気づいて、私はひとり会心の笑みをもらしたものだ。

 太陽の光を何より有り難がる育ちの私には 陽射しで家具が傷むとかそんな考えは一片もなく、あるとすれば、本棚の本の背表紙が色褪せるのが気になるかと、その程度のことだ。


 実のところ、本の日焼けは少しばかり気にはしているが、取り立てて貴重な本ではなく、読むことにさえ支障がなければいいかと、本棚が窓際からは遠いと言う以外には何の対策も講じてはいない。

 とは言え、本が傷む点には、万が一同じ本を手に入れようとすると恐らく大変だと分かっているから、いつも心の端っこに引っ掛かっている。

 近頃は、出版から数年で絶版になったり、本屋で手に入らなかったり、そんなことが多いから、本も欲しいと思った時に手に入れないと、後で痛い目に遭うことが多い。

 本を乱暴に扱う癖はないから(日焼けだけは仕方ないと放置だが)、普通に扱っていれば読めないほど傷めることはないはずだが、これも近頃は装丁が甘いと言うのかやや雑と言うのか、新しい本に限ってやたらとページが取れてしまったり、背表紙が簡単に折れてしまったり、そんなことが目立つ。

 だからと言うわけではないが、近頃は読んでいる本には必ずカバーを掛け、カバーの折り部分を栞にして、絶対に伏せて置いたり、本自体を開き過ぎたりしないように、以前より一層気をつけている。


 そんな本を手に、寒がりながら外へ出る。バス停まで、もう白い息を吐きながら歩いて、立ち止まってまだバスの影も形もないことを確かめてから、カバンの中から携えて来た本を取り出す。読み掛けのページを開き、かじかむ指先に白い息を吹き掛けながら、小さな文字を読み進む。

 もうじき手袋が必要になるだろう。指の自由がそれなりに利く一重(ひとえ)ではじき足りなくなり、分厚い、握る以外のことはできなくなるしっかりとした手袋のその下に、もう1枚、ごく薄い普通の手袋を着けることになる。

 そんな風になると、もうそのまま本のページを繰ることは不可能になり、ページを繰る方の手は、そのたび手袋を取るか、あるいは取ったまま、凍傷にならないことを祈りながら上着のポケットに突っ込んでおくか、どちらかになる。

 冬は、外で本を読むにもひと苦労だ。


 雪でも降り出せば、もう本を開いておくことはできず、渋々手持ち無沙汰に足踏みしながらバスを待つ。

 それでも頭の中は、読み掛けの文字の続きを追っていて、あるいは、以前読んだ本の中身を反芻している。

 本がなければ外に出るのに物足りず、カバンがその分軽いと不安になる。

 外で読めないのだから必要ないと分かっていても、持ち出さずにはいられない。

 二重三重の、もこもこの手袋の指先で、バスの定期すら上手く扱えないのに、何とか本のページをそのまま繰れないかと、私はいつも無駄なことを考えている。


 冬の日に、部屋の中の陽だまりで、淹れたばかりの紅茶のカップを傍らに、新たに本棚から取り出した本の、最初のページを開く時の、何とも言えないふわふわとした幸せな気持ち。

 それがもう、すでに何十回と読んだ本だろうと、私はいつも同じ幸せな気分を味わう。

 白い息を吐きながら、ページを繰るのに苦労する必要もなく、私はあたたかな部屋の中で易々と本の世界に入り込み、素手の掌の上に載せた本の重みにほとんどうっとりとなりながら、舌を焼くほど熱い紅茶の存在をすっかり忘れてしまう。

 夏には汗で指先がべとつくこともあるが、冬にはその心配はなく、そして今は部屋から出てゆく必要もなく、素手のまま本の読めることを、窓の外を眺めてありがたく思う。


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シャツ泥棒

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 家に着いてまずするのは、外で着ていたものを脱いで、部屋着に着替えることだ。どこも締めつけることのない、普段着よりもサイズの少し大きい、だらしのない格好になって、私はまずひと息つく。

 合うはずのない肩の線を、それでもとりあえず馴染ませようと両手の指先でつまみ上げてから、そのくたりとした感触に、そう言えばこのシャツは元々私自身のものではなかったと、不意に思い出す。

 襟ぐりだけはしっかりとした、どこもかしこも私には大きなこの丸首のシャツは、以前一緒に住んでいた男のものだった。


 外へ出る時はともかくも、家で中でだけ着るものなら、多少サイズが合わなくても構わないと考えている私は、洗濯の後で混ざり合ってしまった、私と男の衣類を取り分けながら、

 「ねえ、このシャツ、ちょっと借りてもいい?」

と、洗い立てのきれいなシャツに着替える振りで、部屋の向こう側にいた男の背中に向かって訊いてみた。

 男は私の方へは振り向きもせず、食事をするテーブルに俯き込んで、新聞を読んでいる顔を落としたまま、ああ、と生返事を投げて来る。

 男が振り向かないのを確かめてから、私はその場で着ていた自分の、横じまのシャツを脱いで、男の、男が素肌に直接着けるそのシャツを、するすると着けてしまった。

 男の体温にぬくめられ、散々水を通して洗われてしまっているシャツは、生地こそしっかりしてはいたけれどすでにくたりを柔らかく、驚くほど素早く私の肌にも馴染んで来る。

 それは、とっくに触れ慣れている男の肌の感触とはまた違い、私の体を新たに覆う、もう1枚の皮膚のように、洗剤の匂いとまだ残る男の匂いと、洗濯槽で絡み合う間に移ってしまった私自身の匂いも一緒にごちゃごちゃと、軽く私の体にまとわりついた。

 どれだけぞんざいに扱われても、そこだけは新品のようにしっかりとした丸い襟に、私は鼻先を埋めて、漂白剤の匂いもすべて一緒に、胸の奥に深く吸い込んだ。


 ちょっと借りるだけのつもりが、男のそのシャツは、そのまま私の部屋着のコレクションの中にとどまり、男は自分のシャツが1枚足りないことになどまったく気づかないように、私がそのシャツを洗っては着続けているのを、面白そうに眺めはしても、咎めることは一度もしなかった。

 男の体温になめされ、洗濯の水に叩かれて繊維はほぐされ、それでも陽射しに干されて乾けば真っ白に元通りになる、そのくたりとしたシャツの、体にまつわる具合を私はとても気に入り、なぜ自分の着るシャツは同じ具合にならないのかと洗濯の後で必ず訝しんだ。


 シャツがそうなるためには、きっと男の体温が必要だったのだろう。

 男の皮膚、男の体の熱さ、そこから流れ出て来る汗、そんなものがシャツの生地をゆっくりと変えてゆく。

 男のための、新品のシャツではだめなのだ。男が着て、何度も洗われ、陽にさらされて、眩しいような白さを少しばかり失った頃合いでなければだめなのだ。

 男の体に馴染んだそのシャツを、私が奪う。借りると言って、同じ部屋に住んでいるのだから、別に返さなくてもいい。返して欲しければ、男はただ私の部屋着の引き出しを開けて、そこから奪い返せばよかった。ただそれだけだった(もっとも、男は私の衣類がどんな風に分類されしまわれているか、知らなかったかもしれない)。

 男はそうしなかった。私は、男にシャツを返さないでいた。


 私は今ひとりきりで暮らしている。男はどこか別のところにいる。

 思い出と思って、このシャツを引越しの荷造りの中に詰め込んでしまったわけではない。何も考えず、ただ他の、私の服たちと一緒に、まとめて箱の中に入れてしまっただけだ。何も考えず、私はただ作業の手を動かしていただけだった。

 新しい部屋で、荷を解き箱を開けて中身を取り出して、以前と同じように分けてしまう時にも、私はそのシャツを手に取った記憶があるのに、

 「返さずに持って来ちゃった・・・。」

と思った覚えがない。それほど男のシャツは、もう私のものになってしまっていた。


 他人の服を借りること、借りたがること、それは確かに私にとって相手に対する親しみ表現であることは間違いない。

 すでにその親しみの感情を失っているはずの男の、このシャツを、けれど私は手離すことができず、だからと言って、それが男へ対する未練かと考えれば、いやそれは違うと、私は即座に首を振るのだ。

 私は単に、このシャツを気に入っているだけだ。

 男が何度も着て、私が何度も洗って干し、その間にさり気なく私の所有物になってしまったこのシャツを、私はとても気に入っている、ただそれだけのことだった。


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本を読む人

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 彼は寝そべって本を読み、私は体育坐りの形で膝の上に本を乗せ、同じ部屋で一緒に読書の最中だ。

 私は、自分のことを読書家と思ったことはなかったが、冗談でもそんなことを自称しなくて良かったと、読書家と言うよりは活字中毒のような彼の、床に長く伸びて微動だにしない背中をちらりと見て思う。

 本の虫と言う、もう少し可愛げのある言い方もあるが、彼の、どこか人間離れした言動を考えると、それはあまり冗談にならないような気がして、私は彼を、対外的には本好きな人だとか読書家だとか、そんな言い方で表現している。


 彼は、暇さえあれば本を読んでいる。

 幸いに、トイレに持ち込んだり、食事の場で開いたり、そんな行儀の悪いことはしないから安心しているが、屋根と壁に囲われている場所では、ほとんど片時も本を手放さない。

 私も元々本を読むのは好きだったから、ふたり同じ部屋にいて一緒に、まったく別々の本を読んでいると言う状態は、最初の頃は気になったものの、そういうものだと慣れてしまえば、好きなように本の読める楽しみの方が勝って、同じ空間にいるのだからそれでいいじゃないかと、今は気にもせずに考えている。


 薄いナイロンのかばんを、くるくると小さくまとめてポケットに入れ、彼は時々ひとりで空手で出掛ける。行き先はふたつ先の町の本屋だ。何が特別なわけでもないその本屋へ、私と一緒にこの町に引っ越して来てからも忠犬のように通うのは、恐らく学生時代からの馴染みだからなのだろう。

 私にもそんな本屋はあるが、店主と親しげな口を利くような間柄にはなれずなる気もなく、せいぜいがこっそりと、顔なじみになった店員の女性のひとりに、注文を間違えた本を何とか買わずに済むように頭を下げ続ける程度だ。

 毎月買っている雑誌を、そろそろ定期購読を申し込もうかと、もう何度も考えた同じことを、ページをめくりながら私はまた考えていた。


 彼の背中は相変わらずぴくりとも動かない。

 私の方へは裸足の爪先を向けて、同じ部屋にいると言うのに、私のことなど忘れてしまったように、あるいは最初から存在しないのだとでも言うように、彼は読んでいる本の中へ入り込んで、もう呼吸で空気すら揺らさない。

 私の友人たちの輪の中へ彼が入って来た時に、最初に言われたことが、

 「あの人はすごく変わってるから。」

 滅多と口を開かず、積極的に誰かと関わることもせず、ひとりの時──大抵彼はひとりでいた──は目の前をどこともなく凝視しているか本を読んでいるかのどちらかで、拒否のオーラではなかったが、近寄りがたい空気をまとっていたのは事実だった。

 私は彼自身にはまったく興味は湧かず、ただどんな本を読んでいるのだろうとそれだけが気になって、後で聞いたところによると、彼の方も、見掛けると必ず本を携えていた私の、その本の中身のことが気になっていたそうだ。


 ふた昔前なら、文学青年と呼ばれてそれで終わったのだろう、身綺麗にはしているが飾ると言うことをしない外見と、本には金を惜しまないがそれ以外のことにはまったく興味を示さない態度が、私の友人たちの輪の中では明らかに異質だった。

 読書以外に取られるある種の時間を内心惜しみはしても、そのために友情を捨てられるほど高潔でもない私は、ごく一般的な本好きとして、適当に人付き合いを楽しみ、友人とのお茶の時間のために、読みたかった雑誌は今月はぱらりと立ち読みしてすませても平気な人間だった。

 幸いに、彼は自分の在り方を他人に押し付けるタイプではなく──単純に、そんな話し合いをする時間が惜しいだけのように思える──、私がごくごく狭く浅く本を読む人間だと知った後もそれに幻滅した様子もなく、せっせとひとり本を読み続けている。


 私は、元々の本好きの上に彼に感化され、以前よりも本を読む時間が増えていた。

 彼は、本を読む彼の傍で、私が音楽を聴こうとテレビを見ようと一向に邪魔にも思わないらしいが、一心不乱に本を読む彼の背中を眺めていると、何となくその世界の端っこにでもいたいような気分になって、私も結局本を手に取ってしまう。

 せめて同じことをしたい。彼はそれと特に求めてはいないが、私はこの不思議な人のいる世界へ少しでも関わっていたくて、夕べ寝る前に読んでいた本の続きのページを開くのだ。


 彼は、本をとても丁寧に扱う。読む時には必ずしおりかそれ用のものを手元に引きつけておくし、汚れたままの手で本に触ることなど絶対しない。読み終わればすぐに本棚に戻し、枕元へ積み上げておくのは手に入れた直後の数日だけだ。彼の本は古びたものもあるが、どれもきちんとカバーは掛かったままだし、帯も中の広告も、すべて手に入れた時のままだ。

 彼とこうして同じ空間を分け合うようになった最初の頃、今と同じように一緒に本を読んでいて、私は途中でひとり読書を中断したことがあった。

 鳴った電話を取るために、慌てて読んでいた本を開いたまま伏せて置き、数分後に電話を終えて自分の位置へ戻って来ると、伏せたはずの本は、読み掛けのページにメモ用紙が挟まれて置かれていた。

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"私の場所"

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 書き物をするのに、外に出るのが好きだ。コーヒーショップや小さなカフェ、カフェが閉まった後はバー(騒がしくて下世話なカクテルバーでも想像してもらえれば大体雰囲気は合っている)へ移動して、酒は頼まずに、何かつまめるものとコーヒーか紅茶を頼んで、店の隅の席でノートや本や辞書を広げる。大学の頃の論文書きはいつもそんな風だった。


 家にいる時なら、まずは何か飲み物を淹れて、深刻でもなければ締め切りもない、ただの趣味の書き物なら紅茶を1杯、そうではなくて、頭をかきむしりながら書かなければならない類いなら、大きなポットにたっぷりと紅茶を作る。

 次は音だ。好きなバンドのCDを繰り返し流すか、あるいは何枚か選んでおいて、CDの入れ替えを気分転換のタイミングにするか、そうでなければもう潔く、繰り返すのは1曲だけにして、1日中書き物が続く限り同じ曲を延々と流し続ける。


 PCを普段使いにするようになるまで、当然ながら書き物は手書きだった。紙とペンはこれでなければならないと、何か儀式のように、特に大学の論文書きの時は決まった道具しか使わず、清書の時に読み解くのに苦労する乱れた字をちまちまと走らせる。

 PCで清書すると、どんなに下らない論説もそれなりに筋の通った、何か高尚な文章に見えるのがありがたく、紙の上の自分の字はとても読めた代物ではなかったが、PCで清書が済めばそれはともかくもりっぱな"論文"とやらになり、教授のところへ提出してしまえば、私は自分の書いたことをきれいさっぱり忘れてしまう。


 あまりに静かだと、私はかえって集中できない性質(たち)で、適度な人込みのざわめきの中にいて、逆にその中で自分を孤独へ追い込むのが好きらしい。

 学生の頃、お気に入りの喫茶店があった。夫婦でやっていたその店は、いつも流行りからは少しだけずれたタイプのポップスが流れていて、紅茶の種類が多く、食事も美味しかったから、私はそこへ行けば1時間は居坐ってあれこれと下らない書き物をしていた。

 手紙もあれば、小説もあった。批評文のような、そんなものも書いていた。薄く色のついたルーズリーフにB4のシャーペンを滑らせて、右手の小指の下が真っ黒になるのに気づきもせず、私は週末の午後を、一心不乱に紙と文字に向き合って過ごす。ただひたすらに、愉しいだけの時間だった。


 外で書き物をするのに、面白いことに、人がいて椅子とテーブルがあるところならどこでもいいかと言うとそうでもなく、何箇所か試したのだが、今の私のいちばんのお気に入りはスターバックスだ。これもどこのスターバックスでも良いわけではなくて、大きなテーブルが、まるで食卓のように置いてあって、同じように書き物や調べ物の作業をする他の客と場所を分け合うような店が一番好みのようだ。

 その次は図書館だ。ここは当然ながら、飲み物の持ち込みに気を使う(しっかり蓋の閉まる、倒れても中身のこぼれない携帯マグを持ち歩いている)のが少々欠点だが、当然ながら作業用の机は広々としているし、気分転換に手近にある本に手を伸ばすこともできる。

 ただ、今時は普通にネットに繋がっているPCが置いてあって、ついそちらへ気持ちが行ってしまい、結局目当ての作業はしないまま家に帰る、と言うことも時々起こる。


 フードコートは気に入らなかった。騒がし過ぎるし、そこにいる人たちと、私の書き物をする時の波長が合わないようだ。食べることではなく、作業をすることがまずは主目的の人たちが多い方が、私の気分もそれに添うらしい。

 たかが趣味の雑文書きに、あれこれとうるさいことだ。私自身もそう思う。


 食べることが主では気が散るはずなのに、そう言えばもうひとつのお気に入りにマクドナルドがある。

 私はファーストフードにはまったく興味がないが、マクドナルドはそこそこエスプレッソ系のメニューに力を入れていて、私のアパートメントからはとにかくもバス1本で10分弱で行ける(もっとも、バス停まで同じくらい歩く)場所にそれぞれ1箇所ずつあり、書き物の雰囲気に添う方はなぜかコーヒーの味が今ひとつで、雰囲気が今ひとつの方はコーヒーの味が好みだ。どちらに行くか、気分次第だがいつも迷う。

 雰囲気が好みの方は、仕切りの壁の傍にひとり掛けのテーブルがあり、部屋の隅に近いのでそこへ坐ると少し小さな空間へ閉じこもったような気分になれるのだ。家族向けの場所では、ひとり掛けのテーブルは大抵空いているのがありがたい。

 もうひとつの、コーヒーの味が好みの方は、店の規模は半分以下なのにひとり掛けのテーブルがひとつもなく、ひとりで4人掛けを占領することになり、少し忙しい時間だと肩身が狭い。作業を進めてから退散しようと思うのに、気持ちが挫けて中途半端に席を立つことがたまにある。


 こんな風に改めて考えると、私は書き物を理由に外に出て、自分の小さな居場所を見つけたいのかもしれない。残念ながら外に見つけるそんな場所は、どれひとつ恒久的なものではないが、何となくいつ行っても私を快く迎えてくれるような、そんな気がする場所なのかもしれない。

 私は昔、そんな居場所を"私の場所"と称していたこともあったが、私はいまだ、同じことをしているのかもしれない。


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抹茶フラペチーノ

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 外へ出たら思ったよりも寒かった。風が冷たい。シャツ1枚にするか上着を着るか、出る前に迷って結局上着は着て出て正解だった。

 室温と天気の良さにだまされ掛けた土曜の午後、思ったよりも早く切り上がった用のせいでぽっかりと時間が空き、今日は家を出ないつもりだったのに、ふと思いついてばたばたと家を出てしまった。

 財布と本、それだけはきちんと持って、私はバス停に向かって歩く。風の冷たさにちょっと肩を縮め、続いていた春の陽気がまた突然どこかへ去ったことを、道路を走り回る小さな生き物たちも恨めしく思っていることだろう。

 それでもすでに溢れている緑はそのまま、今はたんぽぽが満開だ。混じって咲く、白や紫や青やピンクの小さな花たち。たんぽぽの黄色には圧倒されていても、私の目には充分に鮮やかだ。


 バス停を降りると、目の前はスターバックスだ。車を持たない私には関係ないが、24時間営業と、誇らしく外に書いてある。歩ける距離なら、深夜早朝関わらず顔を出しているかもしれない。

 もう家を出た時から、今日はフラペチーノを頼むのだと決めていた。そして風の冷たさに、ちょっと早まった決断だったかと思ったが、スターバックスのために週末の午後、わざわざ出掛けて来ることなど滅多とないのだし、寒いとは言っても零下と言うわけではないからと、私は自分の胸の内に言い聞かせて店の中へ入る。

 冷たい飲み物と言えば、麦茶か冷やしたジャズミンティー(もちろん自分で作って冷蔵庫へ入れておく)と決まっている私にとって、外でこんな飲み物を買うのは珍しいことで、ずっと飲んでみたいと思っていた抹茶フラペチーノを、さてきちんとすらすらと注文できるかとちょっと不安になりながら、スターバックスカードをもう片手に持って、レジの前へ立つ。


 サイズはと訊かれ、どんな大きさかと尋ね返すと、ミディアムと言いながらカップを見せてくれた。

 「ミディアムって、Tall?」

 「ううん、Grande。」

 「え、じゃあVentiはラージ?」

 「そう。」

 せっかくスターバックスのサイズに慣れたのだから、ややこしいことは言わないでくれないかと、心の中でだけ考えてから、Ventiと言い掛けたのを私はGrandeと言い直す。

 ぶつくさ考えながらも、これが今日初めて生身の人間と交わした会話だったから、私はきちんと外に出て人と関わっていることに内心では満足して、自分の注文を待った。

 皆熱いコーヒーやカプチーノを頼んでいる。そうだ、今日は外は寒いのだ。

 まあいい、凍死するほどではないし、凍傷の心配はもうしばらく必要ないのだから、半ば凍った飲み物を直に手に持って外へ出ても大丈夫だ。ほとんど剥き出しの液体が、凍って困ることもしばらくない。

 肌寒くても、明るい外は確かにもう春だった。


 私は7分で店を後にした。

 目の前の道路を横切るために、横断歩道へ向かって歩き出す。向かい側にあるバス停から、自分の家へとんぼ帰りだ。

 風が相変わらず冷たい。

 抹茶フラペチーノの上にたっぷりと乗ったホイップクリームは溶ける様子など一向になく、固いままのそれを、私はストローで時々つつきながら、その冷たいミルク入り抹茶を飲んだ。

 手が冷たい。指先が凍えて来る。紙のスリーブをもらってくれば良かったと思ったが、もういつバスが来てもおかしくはない時間だった。店に今から戻るのは少々手遅れだ。

 冷たいカップを持つ手を何度も変えて、私は冷えた掌に息を吹き掛けながら、冷たい抹茶フラペチーノを飲む。

 何だか、とてもおかしな感じだ。

 こたつのある、暖房の充分に効いた部屋で食べるアイスクリームなら、まだ様にもなるような気がした。


 ストローをフラペチーノから抜き取り、ぺったりとついたホイップクリームを舐め取る。スターバックスのホイップクリームは、甘くなくて固い。私はそれが気に入っている。

 カフェラテやカプチーノなら自分ででも淹れるが、このホイップクリームまで自分で準備するのはちょっと面倒だ。缶入りでごまかして、すぐにふわっと溶けてしまう、出来合いのホイップクリームの、やわやわとした頼りない軽さがコーヒーの中へ溶け切ってしまわないうちに、コーヒーの苦味とクリームの甘さを一緒に味わうのが、私は大好きだ。気をつけないとやけどをするのだけが困りものだが。

 飲み物を片手に外を歩くことなど滅多としないから、私は滅多とないことばかりの土曜の午後、バスを待ちながら何となくいい気分だった。

 スターバックスへ行く時は、読書か書き物の準備をして行く。30分から1時間程度滞在するのが普通だったから、今日のように、買ったばかりの飲み物を片手に店を出るなど尋常ではなく、寒い日に、冷たい飲み物片手に震えているのがどれだけ様にならない姿かには知らん振りをして...


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春の風

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 今日、芝生の上に、いぬふぐりの花が小さく咲いているのを見た。

 バスを降りた帰り道では、場違いに咲くすみれのような、小さな濃い紫の花を見つけた。野生の雑草にしては可憐過ぎる茎と花弁は、誰かがうっかり種を落としたものだろうか。

 家に近づくと、小指の爪の半分もなさそうな、淡々しい白い花を見つけ、今日の風の強さが少し気の毒なその姿に、目を細めながら歩き過ぎる。

 2軒手前の家の猫が、私の姿に気づくとぴんとふさふさの尻尾を立て、とことこと近づいて来る。

 春がやって来たのだ。


 この前の、雪もない冬にすっかり甘やかされ、この冬はブーツの調達と雪道にひと苦労だった。歩いても歩いてもバス停に近づけず、往復だけでぐったりする日々が、どうやらほんとうに終わるようだ。

 この街は、世界地図を誰かが気まぐれに針の先ででもつついたように、半径十数キロの、北国にしては異様なほど気候の穏やかな地域にある。

 車で数分行けば暴風雨なのに、そこできっぱりと見えない柵で仕切られてでもいるかのように、こちらはちょっと風が吹いているだけだったり、少し北へ上がると、もう家から出れないほど雪が積もっていると聞いても、ここはなすったように白く粉雪が舞っているだけだったり、だからこそ、そこそこ人が集まり、それなりに大きな街にもなったのだろう。

 特にここ数年は、南にあるはずの別の街々の方が荒れた天気に襲われていて、ニュースを見るたびに少しばかり気が引ける。

 わざわざ選んでこの街に住み着いたわけではないが、この辺りだけがこんな風なのだと、この街で生まれ育った人々に言われて、ああそうなのかと、自分の幸運さをありがたく思う。


 数日風の強いのに閉口していたが、どうやら春風のようだ。

 リスたちが歩道を我が物顔で走り回り、木々の枝の先にはまだ芽吹くものは見えないが、そこもじきに緑であふれるだろう。

 春が始まる時はいつも突然だ。昨日は冬の終わりだと思っていたら、今日にはもう春の半ばのように、そんな風にして、この街の春は唐突に始まる。

 灰色と枯れた茶色に染まっていた街が、色とりどりになる。花たちは、何もかもを吹き飛ばすように茎を伸ばし、花弁を広げ、色をあふれさせて、やっと肩と背を伸ばして歩けるようになった人間たちを圧倒するのだ。

 芝生に生える草花を、すべてまとめて雑草と呼ぶ味気ない人々は、その花々を大切には思わないようだが、雑草と呼びながらそれらを花と数える場所から来た私は、芝生刈り機のエンジンの音があちこちから響き始めると、首を刈られたたんぽぽたちのために、口を閉じてただ心を痛める。


 春は、明るく楽しいだけではない。

 外へ出始めた動物たちがあちこちで車に轢かれ、即死ならよかったのだがと、血の乾いた毛皮の残る姿を目の端にとらえて、車のない生活が始まってからほとんど高速へ出ることのなくなった我が身を、私はずるくありがたく思う。

 自然は決して敵ではない私にとっては、春はただ歓びの季節のはずだが、巡って来た様々な命の在り様が、まざまざと見える季節でもある。

 私たちだけが我が物顔に歩き回るだけではあるまいにと思うが、道路を横切るアライグマを避けて歩道を歩く親子を弾き飛ばしてもいいのかと、そう反論されれば黙るしかない。

 春に見え始める命には、区別はないはずだが、その重さには確かに違いはある。私が自分の命を比較的軽いと感じると同じ程度に、人々は自分たち以外の生き物の命を、自分たちのものよりも軽いと思うようだ。

 体の重さで命の重さを量るのはどうだと、愚かしく真剣に考えたこともあったが、それではますます道の端の草花や体の小さな生き物たち(道路で轢死する羽目になるのはほとんど彼らだ)が軽視されるだけになる。

 鳥を捕まえた蛇が、自分の腕をやるから鳥を放してやれと言った僧に、「鳥の命はお前の腕の重さ程度なのか」と反論したという話は、一体いつどこで聞いたものか。

 蛇の腹を満たす肉の量と思えば、僧の腕で足りるのかもしれないが、命まるごとひとつと思えば、一体何がどれほどならそれと等しいのだろう。


 使える臓器を全部寄付して、残りは廃棄と言う形にでもしてはくれないかと、自分のことを考える。麻酔なしで解体されるのはごめんだが、解体後に生存が無理なら、そのまま放置して廃棄してもらえればあちらもこちらも助かるのにと、真剣に考えるのは世界に私ひとりと言うわけでもあるまい。

 命を少しずつ、他の誰かに分けるという技術は、一体いつ生まれるのだろう。削った命が元に戻らないのだとしても、付け足したそれで誰かが少し先へ生きられるのなら、それはそれでいいのではないかと、私は無責任に能天気に考える。


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優しい人々

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 週に1度、私はある場所で紅茶と菓子を買う。年齢も性別も人種も様々な人たちがずらりと並び、短く言葉を交わしながら自分の順番を待つその行列に、私もひっそりと加わる。手には持参のマグを抱えて、焼き立てのマフィンやカップケーキの匂いに、今日はどれを選ぼうかと考えながら、自分の番を待つ。

 週に1度のこの日、菓子は必ず誰かの手製だ。だから私は、その菓子のために列へ並ぶ。甘いものは大好きでも、自分で作ることしなければ、そんなことが得意な誰かとも暮らしていない私は、誰かの作った菓子が珍しくて、手に取ればたいていまだほのかにあたたかい菓子を、どれにするかと選ぶのを楽しみにしている。

 コーヒーや紅茶を売ることが目的ではなく、この場に人たちを集め、彼ら彼女らが関わり合うのを目的としてる場だったから、飲み物も菓子の類いも恐ろしく安く、紙コップをもらえば菓子込みで百円足らず、カップを持参すればさらに半額と言う値段だ。

 挙句、10回分に無料の1回分がついた前払いのカードもあって、私はそのカードを財布に入れていて、この日だけはいそいそとカードにすでに使って開けられた穴を眺めながら、ひとり微笑むのを止められない。

 世話役の女性たちは、彼女らの息子か孫のような青年たちを適当にこき使って、やたらと大きくて重い、熱湯の入ったポットやコーヒーメーカーをどんどん運ばせる。

 コーヒーメーカーと言っても、小奇麗なキッチンにちょこんと置かれているような品ではなく、高さは50cmほど、直径は30cmもありそうな、まさに鎮座ましましてと言うのに相応しい代物だ。

 新品のころはぴかぴかのつやつやだったろう本体の銀色すっかりくすんで、しかしそのせいで風格の増したその姿に、私はふと、付喪神と言う言葉を思い出す。


 こんなコーヒーメーカーを、私は以前も見たことがあった。

 同じように、年齢も性別も様々な人たちが、ただ同じものを好きだと集まる場所でだった。

 そこでコーヒーを用意するのは私の父親だった。別に誰かに頼まれたと言うわけでもなく、いつとはなしに父はそれをひとりで勝手に始め、恐らくそれは、コーヒー中毒の彼が自分が飲みたいからと、それがそもそもの動機ではなかったかと私は考える。

 コーヒーが置かれるようになって、それに手を出す人たちが増えると、父は今度はそこに菓子も添えるようになった。個別に包装された小さな焼き菓子を、父は自分の行きつけの店で買い求めて、無造作に、けれど奇妙に思いやりのこもった手つきでそこへ置く。

 それもきっと、コーヒーを飲む時には甘い菓子が欲しくなる、彼自身のためだったのだろう。

 父はあまり他人に対する思いやりと言うものをわかりやすく表現する性質(たち)ではなかったから、まめまめしくどこか楽しげにすら、顔も名前も知らない他人たちのために、頼まれたわけでもなくありがとうといちいち感謝されるわけでもなく、そんなことをする父の背中を、私は何となく微笑ましく、同時に奇妙に落ち着かない気分も一緒に抱きながら眺めていた。

 自分が飲みたいから、自分が食べたいから、そういう言い方は、恐らく父の照れ隠しだ。それが彼の第一の動機だったと、私自身否定はしない。だがきっと、それと同じくらい、父にとっては、あの場にいた人たちへコーヒーと甘い菓子を振る舞うと言う優しさの表現が、大事なことだったのだろうと今は思う。

 彼は他人からの優しさや思いやりに、照れずに感謝を示す(とは言え、それは家族以外、と言うことになるのだが)人だったが、他人から感謝されないと言って失望するようなことはしなかった。

 自分が与えられるなら与え、人が与えてくれるならそれに感謝する(彼の場合、受け取るかどうかは別問題だが)、そんな彼の態度は、その頃の彼の歳に近づきつつある今の私には不思議に年齢よりも幼いもののように思える。

 一部の大人の男たちが、案外とその手のことには無頓着だと知ったのは比較的最近だが、人種性別年齢関わらず、微笑んで挨拶することとありがとうと言うことは、かなり容易に人の心をあたたかくするし、とげとげしい気分をやわらげもすると私が学んだのも、実はごく最近のことだ。


 やっと自分の番が来ると、私は色だけは濃く出るティーバッグを取り上げて持参のマグへ放り込み、そこへなみなみと湯を注ぐ。湯の温度が少し足りないので、飲み始めるまでの時間を少し長くする。ミルクを注ぐのは飲み始める直前だ。

 それから例のカードを、そこにいる女性の誰かに手渡し、ひとつ穴を開けられてから戻してもらうと、時々指先が触れ合ったり、あるいはこちらの顔を既に覚えていて、顔いっぱいに微笑んでくれたりすることもある。それから菓子を選んでひとつ取り上げ、ありがとう、ではまた、と言葉を交わして、私の社会へ戻るための小さなリハビリのひとつが終わる。

 こんな風に微笑むことも、人へ言葉を返すこともできなかった私は、ひとりで外どころか部屋から一歩も出ることができず、誰かが焼いてくれたマフィンやケーキの味をすっかり忘れてしまっていた。

 自分に向かって誰かが他意なく微笑みかけてくれることなど、想像することすらできないほど私の心の中は荒み切っていて、だから初めて紅茶と菓子のためにここへ立ち寄った時、私は自分に向かって掛けられた言葉をすべて無視し、誰かと目を合わせることさえできなかった。

 女性たちのひとりは、その頃の私のことを覚えていて、時々笑い話にしている。

 少々不愛想とは言え、ごくごく普通に振る舞っていたつもりだった──ひどい誤解だ──私は、彼女の言葉に最初は驚き、それから苦笑した。羞恥や怒りはまったく湧かず、ああ自分は笑えるようになったのだと、笑う彼女につられて微笑みながら、取り上げたばかりの菓子にかぶりつく...


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書く道具

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 やる気が失せると、道具探しを始める癖がある。

 昔なら、紙やペンにやたらとこだわってみたりしたのだろう。実際に、書き心地が好みのペンを探して、週末にはよくあちこちの店を歩き回ったものだ。

 今ではそれが、エディタ探しに変わり、初めてPCを手に入れた時から数えて、今使っているエディタは一体幾つ目になるだろう。

 初めて自分のPCを買った時に、最初にしたことはフォントとワードプロッセッサーのインストールだった。それがなければ、PCでは文章を打てないものと信じ込んでいたからだ。

 ろくに下調べもせず、店で眺めてその場で買うと決めたワープロソフトが、後でそれほど悪くはないものだったと知ったのは、インターネットが普及して以降のことだが、今もまだ本棚にはそのソフトが箱ごときちんと残っている。今の私のPCのOSはXPだが、もしかすると今もインストールできるのではないかと、少しだけ考えて実行したいと言う気持ちを時々抑えられなくなる。


 その頃はまだ、自分の書いた文章を印刷して本の形にすると言うのが自分の中では当たり前だったから、一応の体裁を整えられる機能がなければならず、そのせいでそれなりのワープロソフトが欲しいと言うのが理由だったが、その後、紙媒体で文章を外へ向けて発表すると言う手段が主流ではなくなり(少なくとも私の周辺では)、その間に生活の変化のせいで私はすっかり書くと言うことから遠ざかってしまった。

 わざわざ買ったPCは単なる時間つぶしのゲーム機と化し、しかしその間にあれこれ好き勝手にいじくることは覚え、そうして初めて、ノートパッドやワードパッドと言う、打った文章の体裁を整えることを問わなければ、文章を打ってため込んでおくことだけには十分な代物と出会うことになる。


 再び文章を書き始めた時、使うことにしたのはワードパッドだった。

 ネット上に自分の文章を放置する間に、同じように文章を書く人たちと知り合い、一体どんなものを使って書いているのかと、そんな話題になる。あれこれ上がる名前を片っ端から調べて自分で試してみた。そうやって模索するのも、楽しみにひとつになった。

 書き出しだけ数行書いて保存したきりになっているそんな断片が山ほどたまり、増えれば増えるほど埋もれて忘れてしまうことも少なくない。だから、できれば書きかけのものが埋もれてしまわないような、そんなエディタがないかと探してみた。

 そして、保存し忘れてうっかり消えてしまうと言うこともしばしば起こったから、勝手に保存してくれる機能のあるエディタと言うものがあると言うことも探す間に知った。

 それから、これはブラウザですでに経験ずみだったが、タブと言うものが非常に便利だと知っていたので、できれば複数文書を同時にタブで表示してくれるものと、そんな風に、私のエディタに対する期待や要望はどんどん膨れ上がって行った。


 エディタで探すと、出て来るのはプログラム用のものが多く、単純に日本語をただ打って表示して保存してくれるのに使い勝手の良いもの、と言うのが意外と少ない。

 縦書きにしてくれるとか、文章の体裁を整えてくれるとか、検索置き換えが便利だとか、面白そうな機能はたくさんあるが、私のしたいことは、結局はただざかざか何も考えず文章を打って失敗なくきちんと(ファイルサイズの限度などなく)保存してくれることであるので、余計だと思える機能には知らん振りをすることに決めた。

 そうして行き着いたのが、テキストエディタではなくてメモソフトだった。

 もちろんこのメモソフトも良し悪しがあって、大抵のものは行間や字の大きさを変えることができず、長文にはまったく不向きなものもある。が、中には見た目を変えることもできるものもあるし、何しろ大抵の場合は自動保存機能が普通についている。そして起動が早い。

 ワードパッドすらもう起動の間に焦れていた私にとって、アイコンをクリックした瞬間にはもう打つ準備のできているソフトの、どれだけありがたかったことか。


 メモソフトにすっかり慣れた頃、ちょっと気まぐれで、エディタ部分が全面表示になり、静かに音楽を流してくれると言うエディタを使ったことがあった。

 見た目もきれいで、確かに視界の中に邪魔が入らないと言うのはいい環境だったが、残念ながら打つスピードと字の表示されるスピードに隔たりがあり、私の好みではなかった。打ったつもりの字が、1、2秒(以上)遅れて画面に現れると言うのは、思った以上に苛立つものだ。

 バージョンアップでこの辺りは改善されているのかもしれないが、何しろ意外に重いソフトで起動にもそれなりの時間が掛かる(とは言っても十数秒の話だが)だったから、これから先再び使ってみることはないだろう。


 今現在私が文章打ちに使っているのはロシア産のテキストエディタだ。日本語表示にして、自動保存や字数カウントやその他欲しい機能を適当に追加して使っている。

 長文を読むのには少々難のあるフォントと行間だが、それはブログかどこか、体裁の整う環境へ文章を流し込んでしまえば問題はない。

 メモソフトの方は文字通りメモ書きや、ちょっと思いついたことを書きとめておくのに使っている。そして、特に保存する必要はないが、少々長めに打つ予定の文章などを打ったりもしている。

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週末のエスプレッソメーカー

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 土曜日、午前遅くか午後早く、台所へ行き、エスプレッソメーカーを戸棚から取り出す。3人用のだ。高さはせいぜい20センチくらい。数年前の春先に手に入れ、以来、私の大事な持ち物のひとつだ。

 ひとりでしか飲まないのに3人分にしたのは、巨大なマグに作って、ひとりちびちび飲むからだ。3人分がこの小ささでは、ひとり用は一体どれほど小さいのかと、小さいもの好きの私はちょっと心を騒がせるが、いまだひとり用の実物にはお目に掛かったことがない。

 アルミ製の、小さなポットと言った風情のそれは、いくつかの部分に分解して、下部に水を入れ、中央にコーヒーを入れ、ひとつにまた戻して火に掛ける。数分後には水が沸き、放っておけばエスプレッソが上部にたまる仕組みだ。

 水が沸き、こぽこぽと音を立て始め、注ぎ口から湯気が出始めると、私は火力をややゆるめ、電子レンジにすでに入れた、計量カップできっちり量った牛乳を沸かし始める。レンジが切れるのは3分半後だ。

 コーヒーにはまったくこだわりのない私は、行き先のスーパーで、エスプレッソ用とパッケージに書かれた、その時いちばん安いのを手に取るのだが、この間、イタリアものと記されたコーヒーが安くなっていて、初めてダークローストと言うのを買って来た。ダークローストが何であるかは知っているが、だから味がどうなると言うことなどまったく知らない。私はとことん無知だ。

 普段使うのと違い、それはもっと細かく挽いてあって、すくうと、ざらざらではなく、さらさらとこぼれる。盛るとふわりと山になり、調べたところによれば、機械でエスプレッソを淹れるなら、そのように細かく挽いてある方がいいらしい。私の、直火式のものでは特に違いはないと書いてあった。

 本来なら、使うコーヒーも、何かきちんと道具を使って、コーヒー入れの部分に押さえつけて入れるべきらしいが、私の貧乏舌でわかるような違いもなく、毎回私はスプーンに山盛りのコーヒーを3杯、こぼれないように入れる、それだけだ。

 牛乳があたたまると、エスプレッソの方の火を止め、まずはエスプレッソをカップに注いで、それから牛乳を入れる。両方が適当に混ざると、上にホイップクリームを乗せる。

 これも、自分で買い始めて知ったことだが、ホイップクリームも、本物とまがい物があり、買う時には注意して名前を読むようになった。本物でなければ、ひどく油くさくてまずくなる。スターバックスはさすがに本物を使っているようで、甘みも淡く、そして舌触りも固い。

 自分でホイップクリームを作ることまではせず、とりあえずは本物と書かれた缶入りのクリームだ。私の貧乏舌にはこれで充分だが、たまにスターバックスの、いかにもその場で作っている風の、固くて甘くないホイップクリームが恋しくもなる。

 さて、上に乗ったホイップクリームだけを飲み込んでしまわないように注意して、カップの縁に唇をつけ、ひと口飲んで出来を確かめる。

 普段使っているコーヒー(挽きがどちらかと言えば粗い方だ)は、作るたび味が違うのだが、今回のダークローストは、少し濃い目に作るようになってから毎回我ながら美味しいと思えて、少しばかり得意になっている。私の腕ではなく、コーヒーのおかげだろうが。

 味に満足すると、まだ溶けていないホイップクリームを舌と唇ですくい取って、動物性の甘みで口の中を真っ白にする。ここで油断してカップから目を離すと、クリームの匂いにつられて寄って来た猫にクリームを盗み食いされるので、カップから注意をそらしてはいけない。

 コーヒーと甘い菓子はなぜか合わない気がして、紅茶の時にはチーズケーキだのクッキーだのと連れが登場するのだが、エスプレッソを淹れた時にはそれだけで飲む。甘みは牛乳とホイップクリームだけだ。

 カフェインは紅茶よりも少ないはずなのだが、夜に飲むとなぜか眠れなくなるような気がするので、エスプレッソを作るのは、遅くとも午後の早い時間と決めている。平日も避けている。これは、私の、週末のささやかな贅沢だ。

 エスプレッソメーカーは、冷えるまで置いておいて、夕食の頃に、分解してなるべく熱い湯で洗う。洗剤を使うと、コーヒーの味を損ねるそうだ。何回かに1度は完全にばらばらにして、部品すべてをきちんと洗う。時折、まあいいかと洗剤も使う。

 使うにつれ、アルミ製は見た目に染みができて来る。味に支障はないが、次に買う時はステンレス製にしようと考えている。部品を取り替えれば、ほぼ半永久的に使えるらしいから、次が一体いつになるのか、その頃まで、私のエスプレッソ好きは続いているだろうか。

 無知な私は、いまだエスプレッソ専用の豆の挽き方があるのか、それとも普通にコーヒーを淹れる時の挽き方でも構わないのか、よく知らないままでいる。パッケージにエスプレッソと言う文字があれば間違いないだろうと言う程度で、それ以上調べることもせず、味の違いもわかるわけでなし、エスプレッソらしいものができればそれで充分だ。

 明日の日曜は、チョコレートシロップを入れてカフェモカにしよう。ホイップクリームも、そろそろ空になるから、次の買い物のリストに忘れずに追加しておこう。

 土曜日が、カフェラテが冷めるのと一緒に、ゆっくりと更けてゆく。今夜はカフェインと一緒に夜更かしだ。

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告白

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 私はどうも、少しばかり本気でカフェイン中毒を心配した方がいいらしい。それとも、他の依存症よりはましだろうか(と考える段階で、きっと私はもう危ない領域へ足を突っ込み掛けている)。

 日々のことをメモ代わりに書いてみたら、毎日コーヒーを飲むことばかり考えている。どこでどんな風に、どんなコーヒーを飲むか、私の1日にとって、それは大変重要なことのようだ。


 何かを書く時の連れに、必ず紅茶が必要だ。だから始終何か書くことばかり考えている私の手に、紅茶の入ったマグが常にあることは不思議でも何でもないが、実のところ、書くためにカフェインを飲むのではなく、カフェインを飲みたいために書きたいと思うのかもしれないと、ふと考え始めた。

 紅茶もコーヒーもなしに、私は書きたいと思うだろうか。書くと言う作業は、カフェイン抜きでもきちんと為せるのだろうか。

 紙やPCのモニタに向かっている私の傍らに、けれど湯気の立つ紅茶やコーヒーのマグが見当たらない。そんなことが有り得るだろうか。


 少なくとも高校の頃には、お茶を淹れて飲むと言う習慣はなかった。実家を離れ、同居人を見つけて、その何人目かの同居人が、何かあれば、

 「お茶飲む?」

と言う人だった。

 それまでの私にとって、お茶とは外へ出て飲むものであり、家にいて自分で淹れて飲むものではなかった。

 彼女と暮らした時間はとても楽しく、その楽しさとお茶が、私のどこかで深く結びついてしまっているのかもしれない。楽しいことをするとは、私にとってはお茶を飲みながらすると言うことになってしまっているのかもしれない。


 と言うことは、私がお茶を淹れて飲みたいと思うのは、楽しいと感じていると同義と言うことなのか? 楽しいことが起こるのだと期待して、そこへ結びつくお茶を、私は自分の傍らへ招き寄せようとしているのだろうか。お茶を淹れれば楽しいことが起こると、私の脳は思い込んでいるのだろうか。

 お茶とは、私にとっては楽しいことなのか。お茶それ自体と言うわけではなく、お茶が、楽しいことを常に連想させてくれるのか。

 お茶は美味しい。お茶は楽しい。私はお茶を淹れて飲むことが大好きだ。


 さて、お茶(紅茶かコーヒーだが)を飲めない時、私は不機嫌になるだろうか。

 残念がりはする。がっかりはするが、不機嫌になるほどではない。煙草や酒や音楽や書き物ほどは、切羽詰った気分にはならない。

 ちぇ、お茶(紅茶、コーヒー、カプチーノ、カフェラテ、カフェオレ、カフェモカ、パンプキンスパイシーラテ等々)が飲めないのか、とせいぜいポケットに両手を入れて肩を揺する程度だ。

 ああだが、街中をうろつき回って、コーヒーショップを探すくらいのことはする。どこかへ出掛ける時に、近くにスターバックスか何かがあるかどうか、今時なら事前に調べはする。

 大事な保険だ。不意に急にお茶を飲みたくなった時に、すぐそこへ行けるように。


 私はカフェイン中毒だろうか。

 煙草のみが、ライターを忘れると激怒するのを知っている。本気の地団太を踏んで悔しがるのを知っている。駐車場に車を停め、車外へ出て店の入り口へたどり着く5歩の間にも、煙草の先に火を点けずにはいられないのを知っている。

 酒飲みも同じだ。飲めないとなると、凄まじい暴れ方をする。

 音楽はどうだ? 落ち着かない気分になる。一刻も早く家に帰って、PCをつけて(私のCDコレクションは、ほぼ全部PCの中に入っている)メディアプレイヤーを起動させたくてたまらなくなる。聞いている最中には、眠る時間すら惜しい。夢の中でその曲をずっと聴いていられないものかと、真剣に考える。

 書くことも同じだ。書きたいのに書けないとなると、指先が気になってたまらなくなる。ペンと紙がありさえすればと、頭の中はそれでいっぱいになる。書けないことが理不尽に思えて、自分が世界一不幸な人間のように思えて来る。乗って来れば、睡眠など3の次だ。


 そう言えば、筆が乗っている時は、マグが空でも気にはならない。いや、書くこと以外のすべてが何もかもどうでも良くなる。

 それじゃお茶でもと思うのは、ひと区切りついて、筆(と言うのも、今時おかしな言い方だが)を置いた時だ。

 やはり私は、カフェインを飲みたくて書いているのではなく、書く時の最良の連れに、カフェインを選んでいるだけなのだ。


 私がカフェイン中毒気味であることは、残念ながら否定のしようもないだろう。

 そしてなぜか、どんな本が好きか、どんな映画が好きか、どんな音楽が好きか、と同じ程度に、どんな飲み物をどんな風にどこで飲むのが好きか、と言うことも、自己評価と他己評価のために重要と思っていると、最近気づいた。

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投稿者 43ntw2 | 返信 (0)

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